負けるわけにゃいきまっせんばい! 13
<引揚者>
各地から集結させられた大勢の日本人は、高雄港にある汚い大きな倉庫で何日か待機させられ、災害時に集まった被災者の集団みたい。そのうちようやく乗船許可がおりて昭和二十一年(1946)三月、何とか家族五人欠けることなく揃って九州に引き揚げてきました。「月影」という駆逐艦の蚕棚のようなところに詰め込まれまして、内台航路(台湾が日本の植民地だったころ、日本本国のことを内地といっていました)を三日三晩「金波銀波の波越えて」なんていう、バナナの叩き売りみたいに威勢のいいものではありません。ピッチングにローリング、胃袋がひっくりかえって、口から飛び出しそうになるくらいにゲェーゲェーと吐きまして、もう半死半生。 着いたところが鹿児島港。まあ桜島の噴煙が凄い日で街中に火山灰が積もって一面灰色一色。こりゃあなんだってなものですよ。なんせこんな情景は見たことが無いんですから。それはみんなの虚無的な気持ちを象徴しているようで印象的でした。 上陸した途端に検疫です。これまた火山灰のような灰白色の殺虫剤、現在は、毒性が強いため人体に有害であるとして使用されていないDDTなるものを、頭のてっぺんから足のつま先までぶうぶうと吹きかけられ、もうもうとしてまるで「粉屋のネズミ」、真っ白け。これじゃ本当に気勢があがりません。 なんだかだと引き揚げ入国の手続きがありまして、今度は汽車にぎゅうぎゅう押し込まれ鹿児島本線を一路北上。やっと父の実家にたどり着いたのですが、さあこれからが大変。終戦直後の混乱期でほとんどの人があらゆる意味で逼迫しているところへ、それこそ一夜にして丸裸になった親子五人が、それはそれは汚い格好で突然帰って来たのですから。実家といったって八畳、六畳、四畳半、三畳、四畳ほどの板の間に五右衛門風呂のちょっとした風呂場に台所といった小さな家でして。そこに祖父母夫婦とその祖父母夫婦がある事情で引き取った孫、つまり私たちの従兄、それに未亡人になってやはりこの実家に帰ってきていた父の妹とその娘が二人。この娘たちももちろん従姉妹になるわけですが、なんと私たちの家族と合わせて十一人の老若男女が、一つ屋根の下で生活を始めたのですからそれはもう大変ですよ。一人だけ父方と血のつなっがっていない私の母などは、当時の嫁という立場もあったし並大抵のことではなかったようです。その母も七十歳まで生きて昭和五十一年(1976)の一月に亡くなりましたけど。 「貧すれば鈍する」じゃありませんが、血のつながりはあっても心のすれ違いが多くなり、悪い面だけが膨らんでしまって間に入った父は随分苦労していました。今でこそ親類同士うまくいっていますけど、お金もない、食料もない、仕事もないという生活は、精神まで貧困にしてしまって嫌ですね。
by masashi-ishibashi
| 2008-04-28 00:01
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