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石橋雅史の万歩計

負けるわけにゃいきまっせんばい! 10

 <太平洋戦争、そして敗戦へ>

 ついに昭和十六年(1941)十二月八日未明、日本は日中戦争も泥沼のまま太平洋戦争へと突入。私が尋常小学校三年生のときです。尋常小学校は国民学校と名称が変わり、父には召集令状が来て、翌年、昭和十七年(1942)早々、外地(南方)の前線に派遣され、非常時体制の中でいきなり母子家庭。父が出征する前の夜、母は泣いていました。子供は何も知らないようでいながらちゃんと知っています。その夜ふっと目を覚ましたんです。何か夢を見たようで、しかしそれは夢ではなく、薄暗い寝床の中からぼそぼそと、母の涙まじりに小さく聞こえてくる夫婦の会話だったのです。狸寝入りをしていた私は、そのうちにまたいつの間にか眠ってしまい、もうその時の会話がどんなものだったかは記憶にありませんが、この年齢になればその時の状況ぐらい想像がつきますよね。
 戦争は個人の意思とか思惑を完全に抹殺してしまう残酷なものです。そして人間を狂気にしてしまいます。今こう言っている間にも、世界のあちこちで性懲りも無くこの愚かな行為が繰り返されているわけですが、これでどれだけ多くの無辜の人たちが飢え、傷つき死んでいくことか。
 昭和十七年(1942)八月十五日(奇しくも三年後のちょうどこの日、終戦を迎えるのですが)九歳年下の弟、三男で末っ子の勝行が誕生。名前だけは勇ましく「勝って行く」という名前なんです。結局は負け戦だったわけですけどね。
 私はこの頃体調をくずして、肺結核一歩手前の肺門リンパ腺炎を患い、長期にわたって通院治療を行うことになり、母もずいぶん心細い思いをしていたのでしょう。
 私の病気もやっと治癒したころ。父が、出征から二年目の昭和十九年(1944)、台南の陸軍歩兵第二連隊に帰還。私たちは台南の台南駅に近い、寿町という所に移り住むことになります。閑静な住宅街といったところでしょうか。父の仕事の関係で、花蓮、台東、そしてまた花蓮へ、それから台北、台南と住まいが変わり、まるでヤドカリみたいですね。幼稚園は途中まで、国民学校も六年生の途中で台南の花園国民学校というところへ転校。幼いながらも転校生には悩みがあります。友達関係、中学受験と……。でも良いほうに考えれば、他の人よりもずっと多くの人たちと出会いの機会が持てたということです。
 それもそうですが久しぶりに会った父は、まだ四十代だというのにあまりのおじいさん顔に吃驚。戦地で歯槽膿漏に罹ったとかで歯がほとんど無いんです。ま、これは後に入れ歯で解決したようですけど。腕に残った帯状のやけどのような弾痕などを見ると、多くの戦死者や重傷者を出した悲惨な激戦地ではなかったにせよ、国内にいればこんな有様にはならなかっただろうにと、その時は戦場という特殊性を子供心に思ったものです。現在はそいうものがテレビというメディアを通し臨場感を伴い即座に飛び込んできますが、その頃は、ときどき映画館で見る景気のいい大本営発表のニュースくらいのものですから、自分がその状況に遭遇するまでは想像も出来なかったのです。
by masashi-ishibashi | 2008-04-23 14:26
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俳優石橋雅史ぶらぶら日記

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