昭和三十二年(1957)十一月、先生は大田区徳持町の「どんこ庵」を引き払い、新宿から出ている京王線の飛田給駅から、甲州街道の方へ向かって十分ほど歩いた、東京都調布市上石原に転居されました。現在は拓けてしまって住宅や商店が立ち並び、旧甲州街道と国道20号腺(新甲州街道)の間に挟まれていますが、当時この辺りは畑と孟宗竹の竹やぶでした。ここに転居されてから、一度、相談かたがた遊びに伺った時、「君は、どう考えても映画向きじゃないかと思うんだけど、ま、とりあえずはしばらく、プロの舞台を踏んで勉強するのも大切なことだから、映画の方はそのうちゆっくり考えようよ」なんておっしゃっていましたが、その映画の話が具体化しないうちに、亡くなってしまいました。
昭和三十二年も暮れの十二月十九日。火野先生と同じく、大変ビールが好きなお方でしたが、忘年会の帰宅途中、新宿区下落合の路上でタクシーに跳ねられて。転居してわずか一ヶ月足らず、五十三歳でした。このお宅に銀杏の木が二本あって、「今度は、銀杏庵にしようかなあ」なんておっしゃっていたのが想いだされます。私が二十四歳のときです。 いろいろ面倒を見ていただいた方の死という悲しみと、支えを失った気落ちとで大分落ち込んでしまい、本当はお慰めしなければいけない奥さんに、「大丈夫よ、これからは火野先生に相談して、力になっていただきましょうよね」と、逆に励まされてしまったりもしたものですが、その火野先生も、長谷先生を追いかけるようにして、昭和三十五年(1960)、ちょうど六十年安保の年に自殺されて――。 奇しくも長谷先生と同い年の五十三歳でした。 父が昭和二十六年(1951)、五十一歳で亡くなり、その後支えになっていただいてた方々が、次々に彼岸の人となっていく。究極、人間本当はいつも独りぼっちなんです。一人で生まれて一人で死んでいく。いろんな方々にお世話になり、力になっていただいても、人生というレールの上を走るのは自分自身です。何人といえども代わってもらうことは出来ません。まして私は、絶対に代替の利かない、私という個性でしか成り立たない仕事を選んだのですから。 #
by masashi-ishibashi
| 2008-05-13 19:21
長谷 健先生
郷里を出る時に、東京へ行ったらお会いになってごらんなさいといって紹介していただいたのが、昭和十四年(1939)上半期に「あさくさの子供」で第九回芥川賞を受賞、「あさくさの子供」の他、「火の国の子供」(1940)、「開拓村の子供」(1941)など多くの児童文学作品を書かれ、最後のほうでは同郷の歌人、北原白秋の伝記三部作「からたちの花」(1954~1955)、「邪宗門」(1956)、「帰去来」<未完>(1958)に取り組んでおられましたが、残念ながら「帰去来」執筆中に、交通事故で亡くなられた、郷土出身の作家、長谷 健先生だったのです。 人の輪というのはどんどん広がっていくもので、この紹介状を書いて下さったのは、高校時代、文化祭で「海へ騎り行く人々」を演った時に、老母役を演じた人のお父さんで、内山田参郎さんとおっしゃる、やはり柳川の方ですが、今ではすっかり内山田家と音信不通になってしまって、まったく消息も分からずに失礼を重ねており、申し訳なく思っております。 昭和二十七年(1952)、日本大学の芸術学部演劇学科に入学して、とりあえずは身の振り方も決まり将来の方針も少し固まった頃、五反田から池上線に乗って、大田区徳持町にあった、ご自身「どんこ庵」と称しておられた先生のお宅にお伺いしたんです。(広辞苑によると、どんこは鈍甲と書きはぜ科の淡水魚、本州中部以南の川や沼に普通。からだは太くて短く体長約十五センチメートル。体は黒褐色。美味。和名ドンコとある。餌にすぐ食いつく魚で、私なども子供の頃よく釣りに行ったものです。また水郷柳川は掘割を巡るドンコ舟でも有名)。かつては、やはり同じく芥川賞作家で、福岡県北九州市出身の火野葦平先生(1937「糞尿譚」で芥川賞を受賞)と兄弟のようにして、一軒の家の上下に住んでおられた時期もあったようですが、そのころは、もう奥さんとご子息の三人暮らしでして、書斎に通され改めて自己紹介をし、紹介状をお渡しすると「フン、フン」と頷きながら読んでおられ、読み終わると、しばらく難しい顔でじっと私を見ておられましたが、急に笑顔になって「そう、芝居をやってみたいのかね」と気さくに話しかけてくださったので、今まで緊張しきって身を硬くしていたのが、いっぺんにほっとし、思わず「はいッ」って乗り出したものです。何しろ初めて小説家なるお方にお会いするわけだし、私はまだ十代で、年の差はちょうど親と子ですもんね。そりゃ緊張もしますよ。そのあと「しかし大変だぞ、ま、今は学校で勉強しながら好きにやっていなさい。将来のことは、追々いいように考えてあげるから、これからは時々遊びにおいで」なんて、美味しいことを言われたものですから、すっかり図に乗り、胸をときめかせ、電車賃を貯めては、近況報告を兼ねて遊びに行き、演劇界の話とか、映画界の話、延いてはその人間関係、最後にはまったくとりとめもない雑談を聞いていました。 或るとき、雑談の最中に、私の体をしみじみと眺めて「石橋くん、ちゃんと食べてるのかね?」と心配顔でお聞きになるので、本当はろくなものも食べてなかったんですけど、「はあ、まあ――」とごまかしてましたら、「君、金がないときは、鰯と豆腐を食ってれば絶対に大丈夫だよ」と、あんまりまじめな顔でおっしゃるものですから、思わず吹き出しそうになったことがあります。 何故って言いますと、先生を初めて見たときから、ずいぶん色が白くて、ぷくぷくしてる方だなあと思ってたものですから、先生も貧乏なときには、豆腐ばっかり食べてたのかなあと思ったとたんに、それじゃあ共食いだあなんて、つい不謹慎な連想をしてしまったんです。しかし鰯なんていう魚は、今でこそ高級魚みたいに値が高いですけど、当時は本当にべらぼう安かったですからね。 この先生に、新劇の劇団文化座を紹介していただいて、プロとしての第一歩を踏み出したわけです。 #
by masashi-ishibashi
| 2008-05-11 14:39
<男女共学→演劇部>
女子高との合併により文化部の活動も盛んになりまして、共学も少し落ち着いてきたある日。演劇部に足を突っ込んでいた友人がやって来て、芝居をやるのに男が足りないからちょっと手伝えって言うんです。そんなことを言われても、こっちは目下のところ強くなりたい一心から、柔道部で汗を流してる最中ですからね。それに人前で何かを演るなんて恥ずかしいじゃありませんか。小学校の学芸会だってなにも演らせてもらえなかったんですから。たまに出させてもらえる時があっても居並びの中の一人ですよ。ただ馬鹿みたいに居るだけ。さもなければ持ち役、つまり木の枝とか、丸く切ったボール紙を持って、お月様とか。しかし待てよって考えたんです。何せ私だって、生意気にも一丁前にそろそろ色気づいていましたから、女性がいる部も悪くないなあなんて、不純な妄想に背負い投げを食わされたうえに袈裟固め。思わず「やる、やるッ」と言ったのが運の尽きではまっちゃった。 とうとうこの年まで、奥方泣かせの俳優を生業とする羽目になったのですが、良かったような悪かったようなで。奥方に言わせれば、「あんたは好きなことをやって食べてるんだから、何のかのって、贅沢言うんじゃないわよ」と叱られますけど。ともあれ節操もなく、柔道部と演劇部に籍を置くといった、二足の草鞋を履く仕儀に相成り、初めてお目にかかったのが戯曲なるもの。木下順二の民話劇「彦市ばなし」「夕鶴」「三年寝太郎」。ジョン・ミリトン・シング(アイルランドの劇作家)の「海へ騎りゆく人々」など。悲劇喜劇こもごも、人間の生きるということが自分の境遇とも相俟って、シングの「海へ騎りゆく人々」では、海に生きる漁師の老母と息子が、海という大自然の容赦のない過酷な試練に耐え、立ち向かっていく姿にえらく感動してしまいまして、その息子バートレイを、学校の文化祭で演じることになったのです。 稽古の傍ら、皆で力をあわせて大道具を作り小道具を作り、それぞれの家から古着を集めて舞台衣装を作る。そして発表。 この芝居の評判がなかなか良く。一回だけの発表ではもったいないなどという周りの話から、ある人の肝煎りで、他に会場を借りて、よその人たちにも観て頂く事になり、すっかり気をよくしていい気なものだったと思います。創造の喜びって言えば格好良いですけど。 <移動演劇を観る> その頃。東京の池袋にある舞台芸術学院の方たちが、移動演劇で回ってこられ、傳習館の講堂で、ロシヤの劇作家チェーホフの、「結婚の申し込み」という人間喜劇を観せて下さったんです。誰しもが自分の奥底に持っている、ばかばかしい人間の滑稽さですね。それでますます芝居って良いもんだなあと思ってしまったんです。 人間の出会いって分からないものです。もしあの時、あいつが手伝えよって言いに来ていなければ、芝居との出会いも、現在の周りの人たち、言わせてもらえれば今の女房(今のって――、残念ながら、今も昔もこれっきり変わっていませんけど)とも知り合っていなかっただろうし、そうすればうちのドラ息子もこの世にいなかったでしょうしね。そのドラ息子もなぜか蛙の子は蛙で、現在は文学座で役者をやっていますが。 そんなことはどうでもいいですけど、国語の成績が急に上昇しましたよ。いや、これもどうでもいいか。 しかし、問題は父でして、演劇部に出入りする私に気がつき烈火のごとく怒りましてね。「お前は河原乞食になるつもりかッ!」って。何せ明治生まれで考え方が古いですから。いやあ参りました。 随分と苦労して、私を育ててくれた父ですから。その父も亡くなる少し前、自分の死期が近づいているのをなんとなく感じていたのでしょうか、ある日、病床で私に「お前の好きなように生きてみるのもいいだろう、役者になりたければ、踏ん張ってやってみろ」って言ったんです。その時はまだ、そんなこと本気になって考えていたわけではありませんし、また病気に関しての知識不足で、父親があんなにあっけなく死ぬとは思ってもいませんでしたから、「ああ、分かったよ」なんて、とりあえずはいい加減な返事をしていたんですけど、結局は俳優という仕事を選んじゃったんですね。 #
by masashi-ishibashi
| 2008-05-05 18:29
芝居との出会い
<毬栗頭の頃> さて、ここで芝居との出会いの顛末ですが。本当に何事も、ひょんなことから思わぬものと結びつく事があるものです。 ここまでの話の流れからすると、時代はちょっと遡り昭和二十一年(1946)。軍国主義体制の中で育ち、少年航空兵などに憧れていた少年が、敗戦の中、九州に引き揚げてきてからは、最初っから勉強をやり直さなければ駄目だというんで、福岡県立柳川傳習館中学校の第一学年に再入学したんです。 裸一貫の引揚者で貧乏なのと、九州弁という方言が喋れないので仲間はずれにされて、「台湾泥鰌、 台湾泥鰌」と随分からかわれよく喧嘩をしたものです。まあ、土地っ子とよそ者って感じでしたよ。もっとも今思い返してみると、昨今のように変に陰湿なものではなくて、わりにからっとしたものでしたけどね。ですから、先年、芝居の巡業で柳川に帰ったときも、四十年ぶりだというのに、お互いに年を取った学友たちが何日も前から皆で肝煎ってくれ、当日、芝居が終わって夜九時半からという遅い時間にもかかわらず、恩師をはじめ、その頃の悪ガキたちが男女合わせて五十人余り集まって、大歓迎会を催してくれましたが、友人とは本当にありがたいものだなあとつくづく思って涙が出ました。 まあ、これは余談ですが。前述のような再入学の状況でしたから、これは負けちゃいられないぞと考え柔道部に入ったんです。単純なものです。戦時中大抵の家庭には柔道着か剣道着はありましたから、それを譲ってもらえばお金は一銭もかからない。私のような貧乏人には一石二鳥だったわけでですよ。これが本音。 もともとこの傳習館という学校は、柳川城主立花宗茂を藩祖とする、立花十二万石の城下町として栄え、郷土の歌人北原白秋をして「色にして老木の柳うちしだる我が柳川の水の豊けき」と歌わせた、水郷柳川立花藩の子弟が通う藩校だったわけで、剛毅な気風が強く、文化部にくらべて体育部の方が数段幅を利かせていたのですが、昭和二十三年(1948)に、新しい教育制度(六・三制)が創設されたため、同じ柳川市にあった、柳川高等女学校と合併し、名称も福岡県立伝習館高等学校と変わって、生まれて初めての男女共学となったんです。 さあもう大変、今まで学校の塀によじ登り登下校の彼女たちをひやかしたり、竹やぶ越しに見える柳川高女のプールに忍び寄って、「ヨウ! ヨウ!」なんてやってた毬栗頭の悪ガキどもが、これなんとも純というかうぶといいますか、いっぺんに面食らってしまって、凧が中空で風にあおられ舞い狂ってるような、蜂の巣を突っついたような。何せこの時代は女の子との付き合い方なんて、まるっきり知らない奴ばっかりなんですから。急に髪を伸ばし安手のポマードをこってりつけて、変な香りをプンプンさせセンスのないお洒落をしてみたり、精一杯無理してへんてこりんな会話をしてみたり、焦れば焦るほどトンチンカンなことばっかり。この年頃は女性の方が姉さんぶって、少しばかり成熟してる面もありますから、呆れ返って眺めていたことでしょう。 #
by masashi-ishibashi
| 2008-05-04 14:51
それ以来また付き合いが始まり、お互いあまり疲れないように、大して残ってもいない人生を、またずっと付き合っていこうよなんて言いながら彼の作品にはよく出演させてもらっています。
その頃の彼は俳優座養成所の五期生に在籍(平 幹二郎なんかと同期ですね)していまして、俳優志望の紅顔の美少年(まだ十八、九歳ですから)でした。 すらっとして本当にハンサムだったんです。 えっ? だったって――、 今はまるで駄目みたいな言い方ですね……、 いいえ、そんなことはありませんよ。そりゃだいぶん太めにはなりましたけど、すごく心が暖かくて優しい人ですから。あれはモテたはずです。 その後、昭和三十年だったかに、俳優座養成所在籍中、テイチクが行った新人歌手募集のコンテストに見事優勝、歌手に転向してしまったんです。さて芸名ですが、その頃売れていたフランク永井さん( あなたを待てば雨が降る 濡れて来ぬかと気にかかる―― なーんてソフトな低音をきかせた〃有楽町で逢いましょう〃という歌をご存知じゃありません?)に対抗してだかどうだか、事の真相は知りませんが、会社では何か良い芸名はないものかといろんな候補名があがり異論続出。たまたまそこに、かのディック・ミネさんがいらしたので名案はないだろうかと助け舟を乞うたところ、ディック・ミネさん曰く「俺は今から税務署行き。だから忙しいんだ」とのたもうたそうな。それで結局は、ゼームショイキが〈 ジェームス三木 〉となったんだそうですが、なんせ何時も何処までが冗談で何処までが本当なのか分からないようなことを言っては、人を惹きつけ笑わせ楽しませてくれる人ですから―― ?うーん、ま、これは本当のこととしておきましょうか。会社がネーミングしたこの洒落た芸名も、当人はあまり気に入らなかったようですけど。 さらに彼は、昭和四十二年(1967)、新人映画シナリオコンクールで「アダムの星」という作品が入選。その後、脚本家として次々に大輪の華を咲かせてきたわけですが、それなのに彼の気骨の精神は、頑固にこの名前をペンネームにして、数多くの素晴らしい良い作品を発表し続けてるんですよね。 ここまで随分駆け足で書いてきましたが、偉人の自叙伝じゃあるまいし、またこれだけが目的でもありませんので、調子に乗ってあまり細かいことまで書いていたんじゃ退屈できりがありませんから、ここらでちょいと一区切りしましょか。 <雑感> まあしかし、振り返ってみますと、大学時代――、 部屋代、食費、学費を稼ぐために、よくぞいろんなことをやりました。 八百屋の小僧さん、キャバレーのボーイ、パチンコ店の店員、荷担ぎ人足、道路工事の土方、映画のエキストラなどなど。仕事が無くお金も無くて、何日も味噌を薄く溶いた水だけを飲んで、立ち上がると脳貧血を起こすし寒気がするものだから、なるべく動かないでじっと布団にもぐっていたこと、部屋代が払えず住む部屋がなくなって友達の下宿を転々と泊まり歩いたり、駅のベンチで野宿をしたり(あの頃は、夜中、駅の構内にも簡単に入り込めたんです)まさにホームレスです。それらのことが走馬灯のように頭の中で明滅しますが、そんな中で、世の中の不条理も、人の情けも裏切りも、よっく思い知らされました。そして失望しちゃいかん! 失望した時は己の負けだ! と――。 ともあれ人生は一回きりです。 青春とは、喜びも悲しみも、未知の世界とかかわりながら、夢と挫折を繰り返す、ガラス細工のように毀れやすい多感な時――。 若さとは、いくつになっても、常に夢を持ち、旺盛な好奇心を失わないこと――。 でしょうか。 よく使われる言葉ではありますが「生涯 現役」でありたいものです。 私は俳優として、いつも自然体で杓子定規の鋳型にはまらない生き方を心がけています。それに柔軟な広い意味での遊び心を持つと言う事でしょうか。人間的な広がりというか、ふくらみはそんなところから出てくるような気がしますけど、どんなものでしょう――。 もちろん、人間としての基本をわきまえた上でのことです。少なくとも最低限の――。 ただ闇雲に、滅茶苦茶に、勝手気ままに生きるということではありません。 まあ、あまり偉そうなことを言えた柄ではありませんけど、出来る限り人間っぽっくそしてデリカシーを持って生きてみたいと思っています。 #
by masashi-ishibashi
| 2008-05-03 19:03
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