石橋雅史の万歩計

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負けるわけにゃいきまっせんばい! 95

 <空手道場もインターナショナルに>

 この大山道場の責任を持たされてからしばらくはここで教えていたのですが、そのうち劇団の方も、本公演だ旅公演だ何だかだと忙しくなってきたものですから、空手の方は大学の後輩を時々指導するだけにしていたところ、昭和三十九年(1964・東京オリンピックがあった年ですね)のある日、またひょっこりと大山師範から「キミィ、何とかならんかね……」と言う相談がありまして、新しい道場のお手伝いすることになったのです。
 まあしかし、時代は変わり道場へ行って驚きました。一道十年と言いますが、目白の自宅庭野天道場で二年、オンボロバレースタジオで八年、十年を経たその頃、大山道場は極真会へと大きく変貌発展し、西池袋に三階建ての立派な本部道場ビルを構えるまでになっていたのです。中に入ってまた吃驚。道場はまさにインターナショナル。国際色豊かと言いますか、日本人の道場生に混じり、いろんな国の方が空手の修行に来ていて、一所懸命に汗を流す光景が展開しているではありませんか。当然、初心者もいますが、自分の国で道場を持っているという道場主たちが、空手の本場、日本へ研修に来ているんです。オランダあたりの人などは、身長百九十センチ、体重は百キロを超えるという人がいるのですから、並大抵のことじゃ師範代理は務まりません。
 何せこの頃、外国人の中には、武道をただの喧嘩と間違えて、いや、格闘技には違いありませんが、戦国時代じゃないのですから。それをどう勘違いしているのだか、七十歳にも八十歳にもなって、現役を引退している高段者の方に対して、その人と勝負したい、もし自分が勝ったら俺の方が強いのだから、その人より上の段位を出せなんていう、乱暴なのがいたりしてですね。葡萄(武道)園のはしご段じゃないのですから。中にはそっと私のところへやって来て、「お金を出すから型を教えてくれ、いくら出せばいい?」なんてのがいたり。〝段位〟も〝型〟も商売に結びつけようって言うんでしょうね。まったくの話し、道の修行をどんな風に考えているのだか、理解に苦しみます。
 ま、それは本当にごくひとつまみの人間で、この空手というオリエンタル武道に対して、大変真摯に取り組んでいる外国の方が大勢いまして、いろんな人に教えながら、また逆に、有形無形様々な、人間の考え方、生き方を教わりました。
 大山道場から極真会と、ずいぶん多くの人たちを教えたり、また大山師範に組手の相手をしてもらったりと、大変深い関わりを持ってきましたが、その教えた人たちの中から、多くの優れた人材が育ってくれて、またその人たちの弟子が国内、国外にと、果てしなく裾野は広がって行き、一武道家として感無量といったところです。
 勿論、これは私の六十年という空手自分史の中の、ひとつのエピソードです。
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by masashi-ishibashi | 2008-09-15 12:31

負けるわけにゃいきまっせんばい! 94

 <極真会・大山倍達総裁との親交>

 今はもう亡くなられた、漫画家の梶原一騎さんが書いた「空手バカ一代」という劇画がありまして、これが若者たちの間でベストセラーになりました。
 空手をやっているか、または興味をお持ちの方はご存知のことと思いますが、この主人公は、牛殺しの大山倍達とかゴッドハンドなどと言われた方で、今は故人となられましたが実名で、本当によく鍛錬されたすごい方でした。
 昭和三十一年(1956)だったかなあ―― 、大山倍達師範からご相談を受けたのは――。
 拓植大学の出身で、もともとは松濤館流をやっておられたのですが、山口剛玄先生(全日本空手道剛柔会の会祖)の知遇を得て剛柔流を学び、剛柔会本部が浅草千束にあった頃には理事を務められたこともあって、以前から面識はありましたけど、この頃はもう剛柔会を脱退されていたのです。
 で、その相談というのが、実は目白の自宅庭でやっていた野天道場から、立教大学裏にあったバレースタジオに稽古の場を移し、「大山道場」の看板を揚げたのだが、自分が忙しいので、そこの指導を手伝ってくれないかとのことでした。
 道場といっても、オンボロ木造アパートの一階にあった狭い板張りのスペースで、窓ガラスなどは破れたままベニヤ板みたいなものを叩きつけ、少し傾きかけたような、今にして思えば大変粗末なところでしたが、〈大山道場〉と墨で書かれた木の看板がかかっていました。ここが現在ある、極真会草創期の道場だったのです。
 空手界がまだ大変保守的な時代で、大山師範が剛柔会を脱退して作った道場と言うことですから、いろいろ問題はありましたけど、師範の人柄と言いますか、魅力に惹かれて、ともかく師範代理をお引き受けすることにしたのですが、その頃この池袋界隈は、現在では想像できないほど荒れていまして、いろいろな人たちが稽古に来ていました。飲み屋の亭主、学生、ヤクザ、職人、サラリーマン、力道山のところの若手プロレスラー金子とか、初代女子プロレスチャンピオン豊田明美さんなど。ときには妙な武術を名乗る、道場破りのような、ちょっとクレージーな者までやって来たりして、生半可な根性ではやっていけません。文字通り血みどろの練習ですよ。
 大山師範はある格闘技マガジンの取材に、当時を振り返って、あの頃は自分の修行とか海外遠征などで弟子たちの指導どころではなく、〈石橋は、アメリカ遠征中の私に代わって道場を預かり、弟子たちの指導に当たってくれた貴重な人だった〉と言っておられますが、とにかくその頃の道場生たちは、基本技の正拳突き百本、前蹴り百本などといった練習メニューが中心でした。
 そこへ大学空手部の系統的な練習法を持ち込んだのです。柔軟運動、鍛錬、拳の正しい握り方、掌の作りかた、立ち方、受け方、突き方、打ち方、当て方、蹴り方、重心の移動、転身などを厳しく指導し、基本移動、複合基本移動、型、型の分解組手、約束組手、そして自由組手(約束なしの攻防)と。剛柔流独特の稽古法とか、接近戦の自由組手に、皆さんは大変興味を持ったようです。
 日芸の空手部まで来て稽古をした人が何人もいたり、また、大山師範の佐渡島での空手デモンストレーション、そして田園コロシアムでの牛との対決や、昭和三十二年(1957)に海外向けとして出版した「What is KARATE」の製作時には、型や組手の撮影にと、多数の日芸空手部員が、私と大山師範とのかかわりの中で協力しているんですね。
 大山師範は酒もタバコもやらない方でしたが、相変わらず貧乏な私たちを、稽古の帰りに、池袋のマーケット街に連れて行き、武道空手の話をしながら焼肉だとかどぶろくをご馳走してくださったものです。
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by masashi-ishibashi | 2008-09-14 14:34

負けるわけにゃいきまっせんばい! 93

 <空手道部追憶>

 日芸の空手道部も六十年を超えました。創部されたのが昭和二十一年(1946)だと言うことですから、戦後の時代を共に歩んできたわけで、この悠久の時の流れに、紛れもなく半世紀以上の足跡を刻んだのです。
 私どもの部は、第二次世界大戦、日本にとっては太平洋戦争が終結した翌年、戦後日本の黎明期とも言える時期を同じくして、江古田の地で、日本大学芸術学部の学び舎に産声をあげました。
 私が入部したのは昭和二十七年(1952)ですが、その頃はまだ街へ出れば、新宿だの、池袋、上野など駅周辺の盛り場には、トタン屋根のうなぎの寝床のような飲み屋だとか、古着屋、食べ物屋などがひしめき合う、バラックのマーケットが活気を見せて、敗戦後の日本の、逞しい、新しい人間の息吹みたいなものを感じた時代で、学校も木造の兵舎みたいなおんぼろ校舎。現在は立派な鉄筋コンクリート建てになり、道場なども冷暖房つきの立派なものをいただいておりますが、当時は学内も土があり、樹があり、草があり、皆おおらかでいかにも人間っぽくって、芸術学部らしい趣がありました。(いや、昨今の学校や学生気質を否定しているわけではありません)その木造教室の机や椅子を片隅に片付けて稽古をしたり、さもなくば校庭の土の上、または大講堂の舞台を借りての稽古、交換稽古、初めての合宿の思い出、数多くの仲間との出会い、別れ、再会等々。青春群像というか、人間模様というか、いずれにしても青春の挫折と苦悩の中で、それを振り払うかのように、空手という武道に打ち込んで無限の可能性を求めていた時代。ともすれば色あせてセピア色になりかけていた当時の記憶が、今こうして原稿を書いていると、脳裡に浮かんでは消え浮かんでは消えして走馬灯のように駆け巡り、写真のネガティブフイルムが、だんだん鮮明なポジティブとなるように像を結び、まことに感慨深いものがあります。本当にこの六十年、並大抵のことではありませんでした。十年ひと昔と言う言葉は大昔のことでして、昨今では科学の進歩にしても、何にしても、国の内外を問わず世界全体が、分刻みで目まぐるしく発展し変化していきます。その中で、苦しみ、悩み、試行錯誤しながらここまでやってきました。明日からもまた未来に向かい、勇気と希望と確乎不抜の信念とビジョンを持ち、大地をしっかり踏みしめ、心身の錬磨により、自信と人間愛を求めて歩み続けて行きたいと思います。しかし振り返ってみれば、〈光陰矢の如し〉目まぐるしく変化していく時代の流れ、あっという間の人生です。
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by masashi-ishibashi | 2008-09-10 13:54

負けるわけにゃいきまっせんばい! 92

 なんせ五十年以上も経って、もう時効ですから白状しますけど、何かの糸に操られた夢遊病者のように引き寄せられて、台の上に並べてある蒸かしたてのじゃが芋を、みんなでそーっと忍び寄り、下から手を伸ばし、ガメて食べちゃった。のどはからからに渇いてるし、胸にはつっかえるしで目を白黒させてひと騒ぎ。あとでコロッケ屋のご主人びっくりしたでしょうね。「あれっ、俺んちのじゃが芋どこへ消えっちまったんだ!」って。そうです、私たちの胃袋の中に消えっちまったんです。ご亭主ごめんなさい。貧すれば鈍すである。
 そこへ現れた救いの神が、肝っ玉かあさんこと、やはり名古屋が地元のもう一人の友人のおふくろさんであります。この状況をいち早くキャッチし、早速、炊き出しをして皆に振舞ってくださった次第。まあ、その時のみんなの食欲の凄まじさ、これほど人間の顔つきは変わるものでしょうか。幽鬼のような面相から一変して恵比須顔。浅ましや浅ましや。食い物の恨みは恐ろしいですぞ。ま、人心地ついたみんなの顔を見て、正直なところほっとしたものです。
 この合宿には後日譚があるのであります。昭和二十九年といえば、朝鮮戦争が終わった翌年で、世はまさに鉄ヘン景気、くず鉄商がものすごく儲かった時代。たまたまその友人の実家もくず鉄商。彼の兄貴が、どうだアルバイトでもしていかないかと一声かけたとたん、わっとばかりに渡りに舟。何を隠そうみんなオケラだったのであります。今の若い諸氏とは大違い。何のことはない、みんなで力を合わせて、生きる知恵を磨く為の合宿だったのであります。これもひとつの青春ではありますけど、合宿に行く為にアルバイトをして、お金を貯めるという話は聞いたことがありますけが、合宿には行ったがお金に窮し、みんなで身売りをして窮地を脱したなど、お粗末な話であります。
 昨今は随分と違いますよ。今昔合宿模様とでも言いますか、何と言えばいいのか、とにかくその変遷、様変わりには驚嘆すべきものがあって、今や時によっては、中国などの外国に合宿地を求めるといった、まるでプロスポーツ選手並みですからね。もっとも修学旅行だって海外に行く時代ですから。ま、二度とない青春の思い出を創ることでもありますし、これまた大変結構なことであり、昨今の若者たちはリッチになったものだなあ、羨ましい限りであります。
 合宿の第一義は、同じ釜の飯を食い、起居を共にし、凝縮された強化練習の中で、同志の固い連帯感と、信頼感を培うことにあるのですから、それさえ見失わなければ、その時代その時代の個性を打ち出していくのも、面白いと言うべきでしょう。私たちのその時の合宿は、予定日数を大幅にオーバーして、まずは無事に帰京したのですが、学校に帰ってからがまた大変。当時、部長だった今は亡きN教授に、さんざん絞られたこと絞られたこと。これは責任者だった私だけのことで、部員諸氏は、誰ひとりあずかり知らぬことであります。

  懐かしい思い出にざれ歌を二句。

   ひもじさと稽古の辛さを比ぶれば
   恥ずかしながらひもじさ勝りぬ

   わが魂はいずこの空を飛びおらむ
   湯気たつ飯の蜃気楼かな

 若い頃、一緒になって苦楽を共にした仲間というのは、幾つになってもいいものですね。
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by masashi-ishibashi | 2008-09-07 14:29

負けるわけにゃいきまっせんばい! 91

 <日芸空手道部初めての合宿――珍道中>

 それはそれとして、日芸の空手部に入部してからは、皆で難行苦行しながら、同じ釜の飯を食うという奴で、先輩、同輩、後輩の結びつきが強い。切磋琢磨しながら喜びも悲しみもあんたと一緒。運命共同体。交換稽古(他道場へ行って技の交換をするの意味で、字に書けば格好いいですがこの頃はまるで喧嘩)でも、試合でも、合宿でも一致団結しなければ空中分解ですから、自然と集団の中での、規律と自由ってのを自覚するようになります。これは社会に出てからまことに役立ちますね。
 昭和二十九年(1954)三月、春休み。私が主将の時に、我が日芸空手部としては初めての合宿を行ったのであります。名古屋です。地元の友人が通っていた柔道場が借りられるのと、愛知スポーツ会館で寝食が出来るとの打ち合わせでありました。
 当時、戦後九年のこととて、まだ外食券食堂なるものがあり(外食券食堂―外食券所有者に食事を供するよう指定された食堂。外食券―主食の統制時、外食者のために発行した食券)、米穀通帳というものがものすごく大切な役割を果たした時代。
 それでも、米さえ持っていけば、宿舎で給食もしてくれると言うので、総勢が米をぶら下げて、意気揚々と名古屋へ乗り込んだものであります。ところが、何もかもが初めての経験だったものですから、何処でどう間違ったものだか、詰めが甘かったんですなあ。スポーツ会館では給食など一切やりません、とのたまうのであります。「ちょっと待っておくんなせぇお若けぇの、じゃない、そこなおっさん、それじゃあ約束が違うじゃあありやせんか」とやり合っては見たものの、にべもなく断られ、宿舎の蚕棚のような寝床に這いつくばったきりで、腹はクウ(食う)クウ(食う)と鳴くばかり。部員諸氏からは、先輩何とかしてくださいよと、突き上げを食うし、泣きたいのはこっちの方でありますよ。
 〈敗軍の将、黙して語らず〉じゃない、〈兵を語らず〉ではありますが、本当に、誰だよ俺の参謀役はと言いたくもなります。あれで二日ばかり、飯らしいものを食うことが出来なかったんじゃないかな――。
 道場に行って稽古を始めてみても、全員、力の入ろう筈がないのであります。悪いことに隣がコロッケ屋さんときて、その蒸かしたての何ともいえない、じゃが芋の匂いが道場に流れ込み、飢えた欠食児童の鼻腔内臭神経を、いやがうえにも刺激するのでありますから、たまったものじゃありません。
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by masashi-ishibashi | 2008-09-06 15:57

負けるわけにゃいきまっせんばい! 90

 <ことを始めるということ>

 空手を習いたいと言ってやってくる人の動機を、自分も含めて観察してみますと、皆さんそれぞれでしょうけど、いろいろありますね。
 虚弱な体質を丈夫にしたいとか、精神を鍛錬したいとか、少年部の親御さんは、子供の躾け(礼儀、作法ですね)をお願いしますとか。しかしそういう崇高と言いますか、高邁な考え方の人はまず希でして、ほとんどの人は、格闘技が強くなりたくて来るようです。
 だけど私は、切っ掛けはなんだっていいと思います。その前向きの意欲に意義があると思っていますから。何も空手に限らず、すべてに言えることですけど。
 あとはそれを追求していくプロセスの結果として、自分の中に何かが生まれる。それは最初に考えていたこととは、全く違った答えかもしれない。多分そうでしょうね。はっきりした答えなど、最初から分かるはずがないんです。何たって頭で考えていたこととは及びもつかない、未知の世界が立ちはだかってくるんですから。ま、現実の社会もみんな同じですが。人間この中で、挫折とトライを繰り返していくうちに、精神的な強さも、そして、何か本物が身についていくんでしょう。
 これも最初の土台、つまり基本がしっかりしていればのことで、物事に対する考え方と言いますか、ちょっと道を間違えますと、とんでもないことになってしまい、悪い癖がついたのを正道に戻すには、大変な時間と努力を要します。
 町道場などにも、喧嘩ばかりしていたような悪ガキがよく入ってきます。自由組手などをやらせると、なるほど確かに、同じ時期に入門した者や、少しぐらい早くから始めたものに比べて、はるかに強い。いや強く見えます。その喧嘩慣れしているのと気の強さで。しかし、自分の腕前に、いやいや腕前と言っても大したことはないのですが、向かうところ敵なしみたいな気分になって、すっかり天狗になっちゃうんですね。
 だからどうしても、地道に努力して積み重ねていかなければならない、基本練習をおろそかにしてしまう。結果は目に見えています。あるところまでは行けても、それ以上は絶対に伸びません。そりゃそうですよね、しっかりした土台が無いから、素晴らしい変化の広がりようがないのです。こういう人は、まず挫折したとたんに、再度、努力しようとせず止めてしまうのが常のようです。まことにもったいない入会金と月謝でありました……。一方、不器用ではあるけど、努力を怠らない人は、あわてずに我慢と忍耐を重ね、こつこつとひとつずつ確実に、基本をものにしていきます。いかにもまどろっこしく見えますが、これが一番正しい近道ですね。まさに兎と亀であります。
 この立ち方、受け方、突き方、蹴り方、打ち方、当て方、移動転身法、呼吸法などの、単純基本の反復運動こそが、次の複合基本への土台となり、反射神経の発達にも繋がっていくのであって、この正しい基本を修得することにより、技は無限の変化へと開花していくのです。
 書道でもそうでしょう。楷書も書けない人が、いきなり行書や草書を書いたらどうなります? 絵だってそうですよね。デッサンも出来ない、写実もちゃんと描けない人が、いきなりシュールレアリスムとかアブストラクトですか?
 ですから牛のように、傍から見れば鈍重なようでも、こつこつと努力して、正しい積み重ねをして行く人ほど大成するようですね。天才も九分の努力って言いますから。空手だけとは限りませんけど、それは並大抵の努力では出来ません。並みの努力だったら誰だってやりますよね。何の世界でも同じです。その人に向き不向きと言いますか、センスの問題もありますけど(この人は、これには不向きだったけど、こっちの方では素晴らしい才能を発揮したとか)。
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by masashi-ishibashi | 2008-09-05 14:59

負けるわけにゃいきまっせんばい! 89

 <ストリートファイター>

 学校での稽古が終わりますと、週に二度くらい、夕方から、浅草の千束にあった剛柔会本部道場での稽古に出かけるんですけど、この稽古が終わった帰りの夜がまた恐ろしい。まずは吉原という紅灯の巷(これがよかったのか悪かったのか、すぐ近くにありまして)、つまり昔の吉原遊郭を、ちょいと息抜きにと先輩たちに連れられてひやかしに行くんですが、白粉つけて紅つけたお姉ちゃんに「坊や可愛いわね、でも学割なしよ」なんて、逆にからかわれ、変にマジになってまごついたりして。うぶですね。もちろん、登楼するお金などかけらも無い貧乏学生。しかしながら、自分を抑制しようとする意志など無駄な努力。情けない妄想ばかりがむくむくと膨れ上がっているところに、「おいっ! 行くぞっ!」っと鬼の一声。鬼と言うのは先輩たちのことであります。「行くぞっ!」って言ったのは、その遊郭に上がらせてくれるのじゃなくて、みんな、これから腕試しをやらされるんです。〈泡沫の夢は儚く消え去りて……〉まったく、いっぺんにしぼんじゃいますよ。情け容赦なく、浅草からふたたび、池袋や新宿の盛り場に連れて行かれるのであります。
 とにかく闇成金の人たちは別として、一般庶民は、もう変に悪酔いするカストリ、焼酎、合成酒の時代です。
 得体の知れない怖いお兄さんたちが、トタン屋根の、うなぎの寝床のような飲み屋や食べもの屋などが立ち並ぶ路地を、肩で風を切り徘徊していて、すれ違っただけで喧嘩を売られるんですから。先輩たちが後ろで見張っていて、「言って来いっ!」って歩かされるんです。昔の柔術で言う辻投げ、剣術で言う辻斬りみたいなものですよ。今の時代はそんなこと出来もしないし、もしやったら事件になってしまいますけど。あの頃はひどい世相だったんですね。
 自動車などの体験乗車と同じです。数をこなせば運転もおのずとうまくなる。それこそ場慣れ喧嘩慣れじゃありませんが、道場空手ではまったく予想も出来なかった、様々な実体験をしょっちゅうやらされるわけですから、そりゃ実戦武術としての自信は確かにつきます。
 今にして思えば、そのこと自体は、つまらないガキっぽいことをしたものだと反省もしていますが、そいう斬るか斬られるかみたいな体験は、この後、社会での生き方を、知らず知らずのうちに変えていったような気もします。
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by masashi-ishibashi | 2008-09-04 14:29

負けるわけにゃいきまっせんばい! 88

 その頃、日芸空手道部の道場は青空道場です。つまりちゃんとした屋根つきの道場がなくて、屋外で稽古をやるんです。もちろん、教室だって木造の兵舎みたいなもので、現在のように立派な鉄筋コンクリートの建物などはありません。
 今でこそ冷暖房つきの立派な道場がありますけど、あのころは運動場の土の上ですから、叩きつけられたりしたら、そりゃ痛いのなんのって。それに雪でも降ろうものなら、たまったものではありません。足の指なんか感覚がなくなっちゃって、石っころなんかにつまずき、指先を怪我しても分かりゃしない。血が出ているのを見てはじめて気がつくくらいで、なんたって素足なんです。雨なんか降った日には最悪。蛙は喜ぶかもしれませんが、こっちはびしょ濡れ泥んこ。後で先輩たちの稽古着を洗濯するのに一苦労。あのゴワゴワした帆布のような稽古着を何着も、ゴシゴシと手で洗わせられるんですから、もう真っ赤に擦りむけて痛テテッで泣きの涙。今の時代であれば全自動洗濯機などという、強い味方があるんですけどね……。ですからいよいよのこととなれば、無理やり空いてる教室の使用許可を貰って、稽古をしたものです。机や椅子を片隅に寄せて、終わったらそれをまた元に戻して。
 それに比べると、今の体育館などにあるトレーニングルームや武道場は、何とも実に快適に出来ていますね。四季を通じ一年中エアコンが入っていて、終わればシャワーあり、サウナあり、気分次第では、体育館のレストランで、気の利いたおつまみを友に、泡立つビールをキューッと一杯。皆さんこれをやるのが楽しみだったりして――。トレーニングルームに来ている人たちの中には、有名ブランドのトレーニングウエアーやトレーニングシューズで身を固め、周りの人とおしゃべりばかりしている人を、時々お見受けしますが、なんと申し上げたらよいのか、体のトレーニングに来たのか、口のトレーニングに来たんだか、洒落のめしてファッションを見せっこする、社交場と間違えたのか、どっちなんでしょうね……。ま、いいとしますか。
 私なんかはどちらかと言えば、それこそ腰に毛皮の腰巻などを巻きつけ、バーベルなどじゃなくて、石っころを持ち上げているような、原始的なのが好きですけど。いや、これはやはり貧乏性に出来ているんですよね。でもまあ、あまりにも文明の恩恵に浴しているときよりは、自然の中にいる時の方が、自分がよく分かるような気がするんですけど――。
 ですから今でも、府中市の〈健康を創る集い〉の連中と一緒に汗を流していますけど、何と言っても心の主道場は、自宅から近いと言うこともありますが、多摩川の河川敷です。学生時代に土の上でばかりやっていたせいか、自然は気持ちがいいですよ。「空手道とは己に勝つこととみつけたり」なんて勝手なことを言って、空手の型などを、時々、ひとりで無心になってやっていますが、朝露が残る早朝にしても、夕陽が沈みかけ、暮れなずむ河原の景色にしても、その自然との一体感がよろしい。
 さて、この日芸の空手道部には、変わっていると言うか、個性の強いのがたくさんいました。もともと自由の気風が強い芸術学部のことですから、他校の空手部とは少しばかり違います。美術学科、演劇学科、映画学科、文芸学科、音楽学科、写真学科、それぞれにものの考え方や、感受性など微妙に違いますが、果てはよその大学、武蔵野音楽大学の学生なんてのが、我が空手道部に籍を置いて稽古をしているんですから。
 各々が独創的な工夫を凝らしてですね。みんなが芸術家の卵気分でいるのですから、可愛いって言うか、始末が悪いって言えばいいのか、それでも真剣そのものなんです。
 ひとりの男がある日、頭をつるつるに剃ってやってきたことがありました。それに稽古着の袖も短く切っちゃって。まるで蛸。「なんだ…… そりゃ?」って言いましたら、「接近戦になった時に袖を掴まれたり、髪の毛を掴まれたら不利じゃないか、それに組討になった時、頭がすべるようにしておけば、するりと抜け出せるし、掴みどころがないから相手も困るだろう」って言うんです。何を考えているんですかね。結果は折角の名案? (迷案)も、何ら効果を発揮することなく、惨憺たるものでしたけど。奇策を弄しても駄目であります。まずは正攻法が一番。
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by masashi-ishibashi | 2008-09-02 14:44



俳優石橋雅史ぶらぶら日記
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