石橋雅史の万歩計

<   2008年 09月 ( 18 )   > この月の画像一覧

負けるわけにゃいきまっせんばい! 105

 <アクションも人間のドラマ>

 いわゆるアクション映画で言う、技斗あるいは殺陣なるものは、当然のことながら、本当に殴ったり、斬ったり、殺したりするのではないのですから、その場面で、いかに〝それらしく〟見えるかが重要なポイントになってくるわけです。そこでよく、顔で斬って、顔で斬られろとか、殴られろとか言うのですが、つまり、今言ったように、本当に斬ったり殴ったりしているのではないのですから、その瞬間の顔の表情、身体の動きが、観ている人に、真実味、臨場感を持たせるのです。立ち回りは、約束事として構成された殺陣を、相手役との信頼関係の上に立って、如何にして、どこまでぎりぎりの線に引っ張り上げ、クオリティーの高い演技が出来るかということです。それには相手役との絶対的な信頼関係、絶妙なアクションとリアクションのタイミングと言った、高度なアクション技術が要求されます。
 そしてアクションは闘争のドラマ、そう人間のドラマなんです。お芝居や映画の中で、ドラマからアクションだけが遊離し独立していたのでは、それが如何に華麗であったり、迫力があったとしても、それは間違った創り方であり失敗作であって、観客の皆さんはちっとも感銘しないのですよ。
 ひとつの映画の中で、いろんな形式のアクションをお見せして、楽しんでいただくことも当然あります。しかしその場面のテーマを全く無視して、〝ケレン〟だけで何もかも構成しますと、それらのものは一種の刺激剤ですから、すぐに麻痺して、もっともっと強い刺激剤を求めるようになります。麻薬のようなものでして、人間のドラマのように奥の深いものではないのです。最後は苦し紛れのアイディア倒れで最早刺激も無くなり、いわんや全くリアリティーのないところに、感銘などひとかけらも無く、観客の皆さんは、振り向きもしなくなるといった結果になります。
 そうです、アクションの基本はドラマの延長線上にあるのです。ただ観客の皆さんに、より堪能し、満足度の指数を上げていただく為に、いろんな〝ケレン〟を取り入れたり、特撮をやったり、もろもろの物量を投入したりして、劇的効果を増幅させるのです。やれSFXだのCGだのと、各パートのエキスパートたちが、その技術の粋を結集するわけですが、あくまでも主はその〝人間〟です。
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by masashi-ishibashi | 2008-09-30 12:15

負けるわけにゃいきまっせんばい! 104

   武術と映画アクション


 <ほんものと殺陣の違い、そのリアリティー>

 さて、武術と映画アクションについて少しお話しましょうか。アクション映画も現代は、ケレンばかり見せた嘘の多い、いい加減な芝居ではお客さんにアッピールすることは出来ません。また武術が強ければ、ドラマの中でもアクションが上手くて素晴らしいかというと、これまたそうとも限りません。あれは芝居心がなければ駄目ですから――。武術を映画の立ち回りに使うには、あくまでも、まず映画と言う媒体による、ドラマの中でのアクションであるということを前提にして、考えなければなりません。
 どだい武術と言うものは地味なものなんです。それに動きは極端に無駄を省きます。ですから武術としての技のムービメントをそのまま使ったら、映画としては少しも面白くありませんし、またその映画からは、逆にほんのもの迫力も、現実そのもののようには伝わってきません。何と言ったって武術とは省エネの精神なんですから。映画では逆に、あるケレンを上手く取り入れることによって、観客の皆さんが手に汗を握るような、迫力のある殺陣が出来上がるのです。
 つまり実際の武術では、無駄である間とか動きを、意図的に殺陣の中に取り入れ、映像として、その劇中人物の心理を表現させたり、またある仕掛けとか、フレームサイズ、カメラアングル、撮影技法などによって、通常では味わえない、ド迫力を画面に創り上げるんです。
 ここに本物の武術と、映画アクションとの接点を見つける難しさがあります。どlこまで本当の武術を見せ、それでなおかつ映画的な見せ場を創って、お客さんを堪能させるかですね。そこが現実と異なった、よりほんものに見せるための、映画の中での、また舞台の上でのリアリティーというものですが、それもちゃんとした本物の基本が土台にあって、意図的にディフォルメしたものでなければ、映像としてもまるで嘘っぱちな、リアリティーの無い、ただの〝作り物〟になってしまって、観る側の心を打たないという結果になるのです。
 例えば、空手の基本なんてそんなに多くありません。言ってみれば、相手に対して「受ける」「突く」「蹴る」の三つの技を中心にして組み合わせ、守りそして攻めるわけですから。勿論その「受け」「突き」「蹴り」をもう少し細かく分ければ、いろんな「受け方」「突き方」「蹴り方」があり、「当て」「打ち」「関節の逆技」「投げ技」まで出てきますが、空手道の教範本ではありませんので、ここで図解してお見せするのも、とんでもない寄り道ですし、この本の上で、私が演武してお見せすることも出来ませんが。いやいや与太を言ってる場合じゃありません。とにかく、それらの基本の上に、そのバリエーションとして、素晴らしい見た目に華麗な、神秘的とさえ見える、創られた技が出てくるわけです。
 また、映画などで、敵と対峙したした時に、よく誰某が編み出した、〝何々の構え〟などというのがありますが、これも一種の格好よさを見せる、視覚的なケレンでしょう。現実に敵と対峙した時のスタンスは、如何様にも変化できる自然体です。本来、構えというものは、そのものが先に存在するんじゃないのです。相手のいろんな動き、つまり多彩な攻撃によって、「受け技」も「攻め技」も「構えの変化」も無限に出てくるわけでして、それこそ千変万化というものです。空手の「型」は前の項でも述べましたように、各流派に伝わるものを合わせると、約六十以上もあります。そしてその「型」は仮想敵を想定して、攻防あらゆる技が、人体で可能な動作のほとんどを網羅して、組み立てられていると言われています。
 他の武術にしても類似したことが言えます。剣術にしても、柔術にしても、あらゆる古武術でも。
 そして映画では、スポーツ化してルールで統一されたものでない、生きるか死ぬかということで、古来、宗家によって受け継がれ守られてきた、いろんな武術、流派を絡ませた方が面白いですね。
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by masashi-ishibashi | 2008-09-29 13:51

負けるわけにゃいきまっせんばい! 103

 <型の構成と息吹による心身の統一>

 空手は「型にはじまり型におわる」と言われるくらい「型」を重視しますが、この「型」は那覇系と首里系を合わせると、六十以上あると言われ、ひとつひとついろんな種類の技が組み合わされて作られており、剛柔流にも初心者に教える普及型から、基本型、開手型といった上級の型まで二十もあります。そしてこの「型」はあらゆる技の組み合わせによる、体の捌き、転身法、呼吸法、技の緩急、精神の統一など、武術としての身体行動を成立させるために、必要欠くことのできない条件によって、仮想敵に対する攻防が構成されています。ですからこの「型」を完全にマスターするには、身体の持つあらゆる機能を総動員しなければなりません。つまり機能全員集合って奴ですよ。
 老若男女を問わず、その人の力量に合わせて、マイペースで練習が出来、どんな場所でも、またほんのちょっとした時間でも出来ます。それに動きやすい服装であれば、どんな格好でも結構ですし、お金もかかりませんしね。こんなにいい健康法はなかなかありません。
 〝息吹〟という剛柔流独特の呼吸法で呼吸調整しながら、先ほど述べた「型」の要素を演武していく。そうすることによって身体の諸器官を刺激し、筋肉の強化や平衡感覚を養うだけでなく、生体のバランスを整えていくという、絶大な効き目があるのであります。
 〝息吹〟と言う剛柔流の呼吸法は、胸郭だけでの胸式呼吸ではなく、おなかを一張一縮し横隔膜を伸縮させて行う、いわゆる腹式呼吸(ヨガの呼吸法にもありますよね)です。息を鼻から静かに吸い込み、下っ腹にぐっとためて今度は口から吐き出す。同時に自分を無にして精神の統一を図る。言ってみれば禅の境地ですな。
 なんとなくストレス解消にいいような気がするでしょう。そんな気がするのじゃなくて、本当にいいんです。


 <おすすめ>

 現代社会の人間はみんな、四六時中ストレス源に包囲されています。ストレスは人間の脳細胞をどんどん減少させると言います。脳が〝スカスカ〟になると言うことは、イコール惚けると言うことです。特に大脳にある海馬という、欲求、本能、記憶、自律神経などをコントロールする部位は、そのストレスの持続時間に比例して萎縮するという研究結果がアメリカにあるそうです。ですからストレス解消は、人間のノーマルな状態、美容と健康に大いなる効用があろうと言うものです。
 現在、空手術を駆使する為の身体行動や、それによる刺激、呼吸法、精神の統一などが、人間が生来持っている自然治癒力、免疫体、抵抗力、内分泌腺から分泌されるホルモンのバランスの正常化などに、大変効果があるようだというので、医療の分野でも、積極的に取り入れている医師がいらっしゃることを、先日、某テレビで放映していました。やってご覧になってはいかがですか。武術なんてあまり大それたことなど考えず、どうぞお気軽に。
 きっと空手美人に、空手美男が出来上がるかもしれませんよ。年齢なんてくそくらえです。
 現代はほとんどの人が半健康人だと言われています。心の病、身体の病!嫌ですね。皆で美しく健康でありたいじゃありませんか。
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by masashi-ishibashi | 2008-09-28 16:15

負けるわけにゃいきまっせんばい! 102

   空手の効用


 <その多様性>

 古くより伝えられてきた武術も、現代社会にあっては、今やプリズムの当て方によって、スポーツ競技にもなり、また武術本来の格闘術であったり、心身錬磨の媒体であったり、美容と健康のためであったりと、いろんな角度から注目されています。
 私などは今や〝美容〟と〝健康〟ですよ。まだまだ老いさらばえてなるものかってんで、助平根性丸出しに、老いの一徹岩をも通す(こんな言葉はなかったですか?)、出来る限り老化を撃退してやろうと、それはもうけなげなるかな必死の努力。いまさら若い娘なんか相手にしてくれないよなんて、言われようが何しようが、聞く耳持たぬと髪の毛逆立てて、と言ってももうだいぶん薄くなって、逆立つ髪の毛もありませんが。ま、そんなことはどうでもいいじゃありませんか。


 <点と円と線>

 武術の動きというのは、すべて無理の無い円運動によって成り立っています。平面的な円運動というのではなく、球体をイメージした方がいいでしょう。「点(自分)を中心にして円を描き、線(直線運動)はそれに付随するものなり」と言うのが武術の鉄則です。皆さん、中国の老若男女が鳩の舞う朝の公園で、それぞれにゆっくりと流れるように、自分のペースで太極拳の型を演武している光景を、テレビなどでご覧になったことがおありでしょう。日本でも健康と美容をかねて、中国の伝統的武術である太極拳が、それこそ老若男女の間に大変普及しています。
 空手はごつごつした、直線的で、パワーだけの荒っぽい運動だなんて思っていたとしたら、それは大きな間違いです。ゆっくりと演武すれば、太極拳や他の武術などと全く共通した、柔軟な円運動なのです。実戦というか、試合などを目的として稽古をするときは、動きにスピードとパワーが要求される為に、その円運動が、人間の肉眼では捉えられない速さになっているだけのことでして、高速度撮影でその動きを捉え、ノーマル回転の映像をご覧になればよく分かります。


 <オリエンタル武術としての広がり>

 空手の発生についてはいろんな説があって、達磨大師が少林寺で、弟子の〝健康〟と〝精神〟を鍛えるために、天竺から伝えた拳法と言う伝説などもありますが、簡単にと言いますか、おおまかに歴史的流れを見ますと、古くから沖縄に伝わってきた格闘術「手」と、中国から伝わってきた「拳法」とが組み合わされて、現代の「空手」へと発達して来たもののようです。ですから今日は徒手空拳の「空手」と書きますが、昔は唐天竺の「唐手」と書いて「カラテ」と読んだのです。
 そして、その那覇手を代表する流派に剛柔流、「首里手」を代表する流派に松濤館流、和道流、糸東流というのがありまして、これを四大流派といいます。現在はみんな全日本空手道連名に加盟して、流派といわずに会派と称していろんな会派に分かれています。なかには故大山倍達師範が、剛柔会を脱退して創り上げた極真会のように、別の国際空手道連盟を名乗っているところもあります。そして今や、世界全国に求道者が広まり、その空手人口たるや大変な数にのぼるのです。
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by masashi-ishibashi | 2008-09-27 14:17

負けるわけにゃいきまっせんばい! 101

 <生兵法は大怪我の基>

 だいぶん昔の新聞記事ですけど、ある大学空手部の学生が、新宿の歌舞伎町でヤクザに喧嘩を売るだか買うだかしたんですね。少しばかり腕に自信があったからか、酒を飲んだ勢いでだかで、いきがったのでしょうが、殴られて一旦逃げたヤクザは、日本刀を持って現場に舞い戻り、その学生に斬りつけて斬殺に及んだ。ピストルだってなんだってある世の中ですよ――、宇宙船に乗って、遠い彼方の惑星まで行こうという時代なんですから。徒手空拳だなんていきがっている場合じゃないのです。可哀想ではありますが、くだらない死に方ですよね。それまで育ててきた親は嘆きますよ。若気の至りと言うか、私もあまり大きなことは言えませんけど。
 私が若いときにこんなことがありました。年令は二十六歳、空手道場の師範代理を務めていた、現役四段ばりばりの時です。所属していた劇団文化座の新年会がありまして、その日がちょうど一月四日で私の誕生日。今はもう故人となられましたが、劇団の後援会長をやっておられた、映画監督の内田吐夢先生も見えていて、空手の型を是非ご覧になりたいとのこと、私は皆におだてられて、型の披露に及び、やんやの喝采。ちょっと誇張しすぎですかな。ま、いいか。こいつは春から縁起がいいやってんで、したたかに酒を飲みまして、結句、お定まりの二次会に繰り出そうということになり、山手線駒込駅(文化座の稽古場が北区の田端町にあったものですから)の近くまで皆でやって来ますと、野卑な声が飛び交って人だかりが出来ているんです。どうしたんだろうと近寄ってみましたら、先発した劇団の仲間が、チンピラに因縁をつけられているじゃありませんか。これは放ってはおけないというんで、「正月早々何やってんだッ!」って左右に分けて入ったとたん、正面から鼻っ面にガーンですよ。相手は複数だったんです。目の前にチカチカッて星が飛び散って、クラクラッときましたね。顔に手を持っていきましたらヌルリと血だらけ!酒を飲んでいるものですから出血もひどい。相手の指輪で鼻柱が切れたんです。
 ちょっとばかり腕に覚えありで自信があったのと、それにかなり酔っていたものですから、迂闊だったんですね。刃物でなくて助かりましたよ。もう怒り心頭に発しまして、己のコートは引っ剥ぎ、上着は脱ぎ捨てる、ネクタイはひっぱずす。それを劇団の女の子が慌てて拾い集めてるいるという、珍奇な光景。ガオーッと得体の知れない奇声を上げて、まるで空手映画!瞬く間に七、八人を駅のガード下に叩きのめしちゃった。劇団の連中に言わせると、映画を観るより面白かったそうですが、冗談じゃありませんよ本当に。こっちはひとの喧嘩の仲裁に入り、最初に喰らった顔面一発で鼻血を出した上に、両目から鼻にかけて、青むくれに腫れ上がっているというのに。一体誰のためにこんなことになったんですか……。
 その後日譚があるんです。その夜のことが、劇団の主宰者であり演出家である佐々木隆さんの耳に入り、稽古場にいた私のところへ娘の佐々木愛ちゃんがやって来て、お父さんがちょっとと言うんです。こいつはまずいなあ、えらく叱られそう――、と思いながらとぼけたふりをして書斎に伺いましたら、何のことはない、「石橋君、幸寿司のおやじさんから武勇伝を聞いたよ」って。事件はどうやらこの店の中が発端だったらしいんですが、自分が大立ち回りをして戦果を挙げたみたいに、上機嫌。男ってガキみたいで、たわいの無いところがあるものなんです。おまけに「最近、劇団の連中も軟弱になってるから、護身術として空手を教えてやってくれないか」ってなことになっちゃいまして(当の佐々木さんは、後で幹部女優たちに、あなたはまるで若い者に、喧嘩を奨励しているようなものじゃないですかって、散々やり込められたようですが)、早速、劇団の稽古場にみんなを集めて、俄仕込みですよ。
 ところがです、始めた次の日、一人の劇団員が片目をパンダちゃんにして(青あざを作って)やって来たんです。いかにも恥ずかしそうにしている彼に、「一体どうしたのよ?」と聞きましたら。稽古を始めた初日の夜、何人かで、新宿西口の〝思いで横丁〟へ飲みに行ったんだそうです。飲むほどに酔うほどに気が大きくなって、昼間、少しばかり護身術の基本を習ったことで、すっかり強くなったような錯覚を起こしたらしいんですね。そこへもって来て、周りがうるさいものですから、いきなり「うるせえぞッ! 馬鹿野郎! 静かにしろッ!」ってやっちゃった。悪いことに向こうは地回り、つまりその辺を縄張りに徘徊するヤー様で「なんだとッ! この野郎表へ出ろッ!」ボカーンで終わりですよ。「生兵法は大怪我の基」ってやつですね。一回や二回習ったからといって、事に当たってすぐに使えるわけがないのです。
 しかしこれが講演ですと、ま、折角ご来場くださったついでですから、ポイントだけちょっとお教えしておきましょうかということで、お調子者の私のことですから、得意になって実演になるところですけど。
 ともあれ、ちょっと長くなりましたが、無事の哲学と言いますか、私が修行してきた、剛柔流の流祖宮城長順先生(1888~1953)の遺訓に「人に打たれず人打たず、事なきをもととするなり」という言葉があります。武道を修める者の人生哲学として、深く肝に銘ずるべきかなと思っております。
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by masashi-ishibashi | 2008-09-26 14:20

負けるわけにゃいきまっせんばい! 100

 <護身術>

 さて、ややこしいわけの分からないことばかり喋ってないで、悪役としては己の身を守る術、護身術の話でも少ししましょうか。
 さあ、来たぞッ。こいつは少しばかり面白いかな――。それともまた、ばかばかしくって退屈なことを開陳し始めるのかなってお思いでしょう。そうなんです、実は後者に近いんです。なかなか美味しい話はありません。
 これまた辞典で護身術の項をひもときますと。「不意に襲われたとき、身体を守る心構えと技術」と書かれています。それには徒手を主体とした攻撃・防御の方法を研究している柔道、合気道、空手道などが好適とも。
 まがりなりにも私は空手家の端くれですから、お得意とする範疇ではあります。たしかに不意を襲われたときの、護身術としての防御技は、いろいろな状況を想定して研究され作られています。しかし、これらの技はその場に当たって敏速かつ的確に対応できなければ、何の役にも立ちません。それにはまず心の落ち着きです。〝落ち着き〟つまり平常心ですか。これはよほど自信がなければ身に備わりません。
 護身術は体術です。記述を読んだり、図解を見たりしただけで、体得できたら何の苦労もありません。体術とは読んで字のごとく身体で覚えこむものですから、毎日毎日いろんなタイプの相手(人によって体格も、力の差も、癖も千差万別、百人百様)と、血のにじむような稽古をして、長年の間にやっと体得できるものです。それではじめて「機に発して感に敏なること」、事に当たって、思考ではなく肉体が反射的に対応するんです。
 書店などに数多く並んでいる、いろんな武術の、図解入りで理論的な指導書がありますが、あれはその道を修行中の人が読んでこそ、はじめて参考になるものであり、また現代は大昔と違って、マンツーマンではなく、一度に多数の人たちを教えることが多いため、側面からの、補助的な教範本として意味を持つものです。ですから私が書いているこの本の目的からも、ここではあえて技術的なことは書きません。期待はずれで残念でした!
 しかし、私はいつも皆さんにこう言っています。一番の護身術はですね、わが身に危険が及ぶようなことをしたり、またそんな場所は避けて通ることだって。
 迂闊であったり、変にいきがったりするのは、一番愚かなことですよね。避けることなんか、少しも恥ずかしいことじゃないのですから。自分から危険を呼び寄せるようなことをしてはいけません。
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by masashi-ishibashi | 2008-09-23 14:17

負けるわけにゃいきまっせんばい! 99

 <武術>

 武士道の話から、つい死の話になってしまいましたが、話を戻しますと、武術の発生は、人類が外敵から身を守るために考え出した格闘技でして、風土や民族性によっていろんな形で発達したわけです。つまりアジアや欧米のどの国にも、独特の格闘術があって、私たちの国日本でも、時代が進むにつれて実戦の経験がより研究され、この項のはじめに述べましたような、いろんな武術が出来上がり、生きるか死ぬかと言う鎬を削る中で、それぞれに特色のある流派が派生したんです。武術とははっきり言ってしまえば、自分が生きるために必要な、外敵に対する防御と攻撃の技です。と言うことは、究極のところ殺すか殺されるかという宿命を持っているのです。だから身体の小さい者でも大きい者を倒し、非力な者が大力の者にも勝てる技を工夫したんですね。それは徒手格闘術であったり、あるいは武器を工夫したり、忍びの術であったり。とにかく相撲だって、現在は皆さんがご覧になってる通りですが、「日本書紀」などに記述されている大昔の頃は、逆手、投げ、蹴りなどによる、生死をともなう格闘だったというんですから。
 このように室町時代末期の戦国時代を経て、研究を重ね編み出された武術も、江戸時代に入って戦がなくなってくると、単なる格闘術から、究極の自己を見出す道となってくるのです。そして現代、武道の〝道〟はその修行を行うプロセスの中から、人の痛さを知り、耐える精神を養うなど、身体の鍛錬、精神の修養という心技をも合わせて培い、それこそ精力善用の人格形成を目的としているわけです。
 これからの武術は人を倒す術であってはならない、人を生かし己を生かすことだ。つまり〝道〟なのだと。悪役凡人の私には奥が深すぎて、まだ分からないことばかりですけど。
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by masashi-ishibashi | 2008-09-22 16:33

負けるわけにゃいきまっせんばい! 98

 <死という宿命>

 私をはじめ、およそこの世の中のほとんどの人が凡人ですが、その凡人である人間の、生への思いにはいろいろな形があるでしょう。またその終焉である死の形もさまざまです。自分の周りを見回してみただけでも、いろんな思いをさせられます。地球上に六十六億の人がいれば、六十六億の生と死の形があるわけで、その人の生まれた地域、環境、人種、境遇によっても千差万別。このテーマーについて掘り下げていったら、ちょっとやそっとでは語り尽くせません。
 そこで話は、いきなり身近なところへ舞い戻っちゃいます。うちの義母なんかは、八十四歳の時に脳塞栓でぶっ倒れて強度の半身不随になり、寝起きも歩行も何も出来なくなってしまった、あの悲惨でみじめな状態の中を、本当に精一杯生きていましたが、二年半辛抱して、八十六歳で亡くなりました――。
 生きている間はなんとしても、自力で身の回りのことが出来るようにと、あれほど健康に気を使っていろいろと努力し、つい前日まで、築地の魚河岸へ買い物に出かけるという元気な人でしたけど――。
 人間、思いもかけないときに死と直面した瞬間、晴天の霹靂とばかりに、平常心を失い取り乱すものです。義母なども気がついてみたら、突然自分の身体が麻痺してしまっていることに、ショックでパニックになり、死にたい死にたいの連発でして、何度も自殺を図ったんです。もっとも身体が麻痺していて、ほとんど動けないのですから、その形跡を残していただけで、すべて未遂に終わったわけですが、でも気持ちはよく分かるような気がします。人間なんてそれほど強いものではありません。頑張って努力すれば何とかなる、という光が少しでも見えればですが、一縷の望みもまったく断ち切られたとき、人はいっぺんに気力が萎えて、鬱にもなりますよね。
 時間が経ってある程度正常な精神状態に戻ったとき、今度は、このまま死んでしまいたいと思うのと、その反対に死と言う事象は、限りなく不安で怖いもののようです。ま、そうでない方もいらっしゃるでしょうから、義母のことを勝手に想像するのは、的を得ていないのかもしれませんが、私が大凡人だものですから、つい自分の尺度でものを言ってますけど。昔から、生者必滅とか盛者必衰と言います。仏教の教えで、命あるもの、ときめく者も必ず死滅するし、衰えると言うことですが、人間が死ぬということは宿命です。誰もその宿命から逃れることは出来ないのです。
 父は肺がんで六ヶ月病み苦しみ、五十一歳で他界。私、十七歳、まだ人生の何たるかもよく分からず、枯れ木のように痩せ細った亡がらを見て、ただ闇雲に悲しく涙が止まらなかった。母の時は心筋梗塞、それこそ信じられないような、呆気ない息のひきとり方で他界、七十歳。私、四十一歳、あんなに元気だったのに突然のことで、長い間、心配と迷惑をかけっぱなしだったのに、最後には何もしてあげることが出来ず、寂しさと悔悟の念でいっぱい。
 外を見回せば、テロ事件だ何だかだと、夥しい人が死んで行きます。年を重ねれば重ねるほど、生と死への思いは重みを増してくるものです。
 義母のことにしても、二年半もの間、その痛々しい姿を見ているのは、まことに辛いものがあります。また己の身に返ってみれば、遠からぬうちに自分も老いさらばえる、老いればいいことなどほとんど無いと思った方がいい。マイナス面の悪いことの方が多いでしょう。医学の発達や諸々の条件で、長寿社会になり、昨今、生、老、病、死、というテーマーがよく論じられていますが、人間、誰もが必ず正対しなければならないことなのです。しかし、ただ長く生きていればいいというものでもないでしょう。その人の生き様の問題ですよね。自分で自分の身体の始末が出来るか、またなにがしかの想像力が残っていればですが。もちろん、命の尊厳はあります。
 ですが認識や思考がまったく失われ、肉体的にも精神的にも苦痛だけしか残されていなかったり、植物人間のように、人工呼吸器で酸素を送ってガス交換し、チューブで栄養剤を注入して、生命を維持している状態などは、人としての本当の生命体と言えるでしょうか――。
 身内からすれば、どんな形でもいいから生きていて欲しいという気持ちと、こんなに苦しむのなら、早く死なせてあげたいという気持ちが葛藤して、どっちが正しい答えなのか、人が人のことを勝手に決められるものでもありませんが、心が痛みます。
 昔、秦の始皇帝は、不老不死の妙薬を探し求めたそうですが、人間が限りなく生きるなどあり得ません。いつも死と向き合っているのです。平時はそんなこと考えもしない、若いときは特に、だから笑ってはしゃいで、くだらないことで悩んでみたり、怒ってみたりして、能天気でいられるんです。生まれたときから死の恐怖に思い悩み、苦しんでいたら普通じゃありません。それこそ不安神経症のひどい奴で、そのうちに神経が参って本当に死んじゃいます。知らぬが仏が一番。
 精一杯、今を生きることです。
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by masashi-ishibashi | 2008-09-18 16:02

負けるわけにゃいきまっせんばい! 97

   武道と武術と護身術


 <武道>

 百科事典の武道の項を開いてみますと、こんな風に定義されています。
 武士が武術を通じて身体と精神の鍛錬をして、人間を作る規範とした道のことで、江戸時代末期以後に使用された言葉である。
 武士はその武術を修練してその道を修得したと。
 武術とは、いわゆる武芸十八般などと言われる、弓術、馬術、槍術、剣術、水泳術、抜刀術、短刀術、十手術、銑鋧術(手裏剣)、含針術、薙刀術、砲術、捕手術、柔術、棒術、鎖鎌術、錑術(もじり術)、隠形術(しのび術)の十八種と言うのでありますが、これらはそれぞれにいろんな流派があります。現代、弓道、馬術、剣道、柔道、水泳、薙刀道などはスポーツ競技としても行われておりますが、そのほかの武術も各宗家によって受け継がれているものがあり、その技術が存続されています。そのための「日本古武道振興会」とか「琉球古武術保存振興会」などがありますが、ともあれいずれを修得するにしても、生半可な修練では成就するものではありませんね。オーバーに言えば、文字通り悪戦苦闘血みどろの稽古、稽古の積み重ねであります。人間の身体は恐ろしく緻密に出来ていまして、その全身に張り巡らされた感覚神経と五感は天下一品。何ものにも勝って複雑、緻密、敏感であり、したがってお互いにちょっとでもぶっかり合えば、その防御反応は驚くばかり。誰だって痛いのは嫌ですからね。それに自分の体力の限界を超えれば、どなたに限らず白目を剥きます。武術の修練なんてものは、苦しきことのみ多かりきでして、まさに苦行を乗り越えて押忍の二文字であります。
 江戸時代の武士道の書と言われたものに「葉隠」というのがあります。みなさんも書名はよくお聞きになると思いますが、九州の佐賀鍋島藩士で山本常朝という方の談話を、やはり同藩士で田代陳基という方が聞き書きして編集されたものだそうで、1716年に出来たと言われますから、かれこれ二百九十年ほど前になりますか。「鍋島論語」ともよばれ、戦国以来の武士の体験をもととして、武士の心得を書いてあるもので、「武士道というは死ぬことと見付けたり」とこれまた有名な言葉です。しかしこの死を賛美しているところは、なんとも閉鎖的な尚武の思想ですよね。武士道とはわが国の封建時代に、武士階級の間で重んじられた道徳でして、主君の危難にあたり、家来は身を捨てて忠義を尽くし、また主君は家来のすべてを保護するという、封建的な関係が何代も続きますと、その主従関係はますます緊密になって、それと共に絶対的な倫理道徳が形成されていくわけであります。
 それは戦国以来の、まだ国が統一されていない、それこそ群雄割拠の時代に、それぞれの領主を中心にした、お互いの生きる条件として、知恵として自然発生的に形成され、死を共にした戦場の生活規範が、日常生活に持ち込まれたもので、仁愛、義理、質実剛健、武勇の気風を尊び、死を恐れず、恥を知るという生活が強調され求められたものでして、戦いの治まった江戸時代に入ってからは、封建教学、儒教と結びついて理論化されたようですが、江戸時代前期の儒学者山鹿素行の影響が大変大きいといわれています。彼によりますと、武士は生まれつきの気質を正して寛大な気風を養い、君恩の重きを思って是非を論ぜず忠にはげみ、仁義によって行動しなければならない、としているわけでありまして、「葉隠」などは、藩主を中心に一切の行動を従属させ〈自己をむなしくして死ぬ〉ことを賛美しているのですが、さて個人主義を尊重する現代の倫理道徳、価値観からすればいかがなものですかね。
 この閉鎖的な考え方は、封建社会の小さな世界で、究極の選択として死しかなかった武士たちが、そこまで死を正当化し美化し、悟りに近い境地を求めなければ、死の恐怖から逃れられなかった、一種のマインドコントロールではなかったかとも思うのですが。
 しかしこの精神は、現代あの第二次世界大戦のときにも、臣道実践論として、全国民に滅私奉公の心構えが要求されていたのですね。現在、企業というモンスターの世界にも、政治の世界にも結構あるかも? ですよ。
 今の時代に武道とはなんでしょう? 道とは? この武術の修練と言う荒行のプロセスから、私の中に何が生まれてくるのですかね――。 最終的には〝無〟ですか? そんなに達観した立派な人間になれますかどうか――。
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by masashi-ishibashi | 2008-09-17 14:25

負けるわけにゃいきまっせんばい! 96

 <私と武道>

 昭和四十年代(1965~)の後半からは、杉並区善福寺にあった、私の本家、全日本空手道剛柔会本部の専任師範を引き受け、日本空手道専門学校の教授なども兼任し、ここでも国内外のいろんな人たちと出会い、数々の体験をしていくわけですが、この私が育った剛柔会には、浅草千束に本部道場があった昭和二十年代(全日本空手道剛柔会は、昭和二十五年<1950>に、山口剛玄先生を会長として結成されました)、恩師山口剛玄先生から稽古をつけてもらったり、芋を洗うようにぶっつかりあいながら、先輩、同輩、後輩などの仲間と汗を流した日々。それから六十年近い歳月が流れ、今、頭の中には、書けば枚挙に暇がないほど、幾多の想い出が刻み込まれております。
 ともあれ、こうして二つの大きな会派に関わってきたのには、私なりの思いがあってのことです。
 ごく若いときには、私も皆さんと同じように自分の流派にこだわりました。自分がやっている流派ほど素晴らしいものはないと――。しかし、長年修練しながら、広い目で武術全体を見つめているうちに、ある時、自分の考え方の狭隘さにふと気がつくんですね。
 日本の武術の歴史を見てきますと、流派が流派を生んで、生きるか殺されるかということでやってきたわけです。しかしこの現代、グローバルな感覚を持って生きなければならない時代に、現代人としての視座や視点から考えれば、尚武の気風を養うにしろ、武道という次元で、社会と関わるにしろ、その昔、流派と流派が生きるか死ぬかで鎬を削ったような、そういう閉鎖的、保守的な考え方は、まったくナンセンスと言う他はありません。古代の化石です。
 勿論、基本的には自分を育んでくれた流派を大切にした上でのことですけど。
 また武術があまりにも細分化されて、どうしても、おらが武術こそはと思うのかもしれませんけど――。本来格闘術と言うものは、自分の身を守る為の防御術、攻撃術が発達してきたもので、あらゆる武闘の技を、一身に備えたもののはずです。それが細分化して武芸十八般じゃありませんが、独自の武術として発達し、その一つひとつがまた多くの流派を派生していったわけでして、ですからどの武術、またどの流派にも、みんなそれぞれに素晴らしいものがあります。
 それに私個人の立場から言えば、俳優という職業は、元来いろんな人物を演じなければなりません。ですから何事も特定のものに拘束されることなく、何時も多角的に広い感覚で物事を見つめているのです。今や武道は私自身の、格好よく言えば道を探し求める媒体なのです。
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by masashi-ishibashi | 2008-09-16 13:24



俳優石橋雅史ぶらぶら日記
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