石橋雅史の万歩計

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負けるわけにゃいきまっせんばい! 44

 昭和三十年代(1955~)のマス・メディアの発達、特にテレビジョンの出現による様変わりは驚くばかりで、草創期には、まだどこのテレビ局もテレビドラマのオンパレード。何を放送したらいいのか、試行錯誤していた時代は、ドラマが一番手っ取り早かったんですかね。初期のドラマは全部生放送です、だいたい二日間リハーサルの一日本番でNGはききません。セリフを間違えようが忘れようが、着替えが間に合わなかったり、慌てて次の場面のセットを間違えたりと、どんなアクシデントがあっても時間が来れば終わっちゃうんですから。ドラマはバラエティーのように笑いを取ってごまかすわけには行きません。しょぼんとしてスタジオから出てくる姿はみじめです。ですから、オープニングの音楽が流れて本番に入る時、十秒前…五秒…四…三・二・一とフロアマネージャーのカウントダウンの声を聞き、キューサイン(cue、ラジオ・テレビで演出家が手の動作で示す開始の合図)が出るまでの数秒間、本当に心臓が締め付けられて寿命が縮まる思いです。それだけ大変なのに、一度などロケーションで撮った映像のアフレコ(アフター・レコーディング、後から声や音を録音すること)が間に合わず、本番中にスタジオのテレビモニターを見ながら声を入れ芝居を続けたことがありますからね。外国映画の吹き替えなども生放送のものがありまして、誰か一人が台本のページをうっかりめくり間違えたら後はもうしっちゃかめっちゃか。今はテレビドラマもビデオなどという強い味方がありますからね。あの頃生きてきた連中はつわものですよ。話はちょっと余談にそれましたが、昨今はテレビ本来の、メディアの使命というか、姿に落ち着いてきて、俳優もいろいろなジャンルの番組に出演していますけど。
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by masashi-ishibashi | 2008-07-07 14:13

負けるわけにゃいきまっせんばい! 43

 そもそも新劇なるものが生まれたのは、明治四十年(1907)代です。正確に言えば明治四十二年(1909)でしょうか。ヨーロッパの近代演劇運動に刺激され、いわゆる旧劇といわれる歌舞伎や、それと流派を異にした新派など、旧来の演劇を改革して近代的な演劇を建設しようと、小山内薫、市川左団次が創立した新劇団自由劇場に始まり、歌舞伎、新派に対して、現代人の生活に即した演劇だということで、当初は、イプセン、メーテルリンク、チェーホフ、ゴーリキーなどの作品を上演し、外国演劇の紹介が行われていたようです。この時期、島村抱月と松井須磨子の芸術座をはじめ、多くの劇団が次々と結成されては消えながら、ヨーロッパ演劇を摂取していました。大正十三年(1924)、新劇団築地小劇場が創立され、また土方与志、小山内薫を主宰として同名の劇場が建設されて、専ら翻訳劇、創作劇が紹介されたわけですが、現代人の生活に即した演劇をという新劇運動も、文学から自立したジャンルとして確立することが出来ず、多くを翻訳劇に頼ることになったようです。大正九年(1920)頃から興ったプロレタリア演劇運動が提起した「政治と芸術」の問題は、築地小劇場にも影響を与えて、小山内薫の死後昭和四年(1929)に分裂、昭和五年(1930)には解散ということになるのですが、これらの流れが現在の新劇のルーツなんです。
 プロレタリア演劇は、弾圧による危機打開のため大同団結して、昭和九年(1934)新協劇団を結成、新築地劇団と並んで、リアリズムの探求によるすぐれた舞台を生みました、しかし両劇団は昭和十五年(1940)に強制解散。
 一方、芸術派としては築地座、その後を受け継いだ文学座が、文学的戯曲を上演して弾圧を免れる。
 戦後、文学座、俳優座、民芸のいわゆる三大劇団を中心に劇団制の確立を目指し、芸術上、経済上の問題を模索。
 1950年代、つまり昭和二十五年頃からは「新劇ブーム」と呼ばれる隆盛期を迎えるのです。私などもこの戦後派の一人ですが、百科事典などを参考にして、新劇史の経緯を簡単に言えばこんなことです。少しばかり専門的で、ちょっと退屈なことを書きましたが、この辺りの流れを知っておかないと、今、自分が何処のどんなところに立っているのか、新劇運動が何なのか、そこのところが分からなくなるので、再確認のために受け売りを書いたまでです。
 戦後、演劇による文化運動は、職場演劇、地方演劇活動なども大変なものでした。しかし文化はいつも、社会的背景の流れによって、常に普遍性を中心に持ちながらも変貌していきます。
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by masashi-ishibashi | 2008-07-06 12:42

負けるわけにゃいきまっせんばい! 42

  孤独の放浪


 <プロローグ>

 たった一枚の紙切れが、一人の人間の人生を決めます。普通であればなんでもないような事でも、ある状況の中で、場合によっては殺すことだってあるんです。でも私は死にません。
 もう一度、現時点の状況をよく認識して、生き方を考え直す必要に迫られたわけです。
 しかし、人間なかなかこだわりから抜け出せないものですね。悪く言えば、新しい世界に目を開いてみる柔軟性がないというか、私は特にそうなのかもしれませんが。でも負け惜しみのようですけど、<古きを知って新しきを開く>じゃありませんが、さっさと通り過ぎてしまわないで、ひとつの事にじっくりとこだわってみるのも、大切なんじゃないかと思うんです。<石の上にも三年> <一道十年> とか言うじゃありませんか。ま、そんな古臭い格言なんかはとlもかく、今度の結果をひとつの区切りとして、やっと自分が吹っ切れ、少しは、今までやって来たことの整理が出来そうな気がしました。
 当時、新劇の某有名な俳優さんが、これまでの劇団体質を払拭して、俳優センターみたいなものにしたらいいんじゃないか、と提唱されたことがあります。つまり今までのような劇団システムを止めて、広くプロデュースシステムにするということです。これまでの新劇団は(勿論、新劇に限らず、劇団システムを採っているところは、大方そうですが)特別の客演とか、合同公演を除けば、すべて各劇団の演技部の中でキャスティングが行われ、当然、演出も基本的には、その劇団の演出部が担当したわけですが、この頃すでに、従来の劇団システムのあり方の中に、多くの矛盾を抱え始めており、それを正当化し繕いながら、活動していたような気がしてなりません。
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by masashi-ishibashi | 2008-07-05 14:47

負けるわけにゃいきまっせんばい! 41

 この一年間は、文化座で八年間仲間と喜怒哀楽を共にし、芝居創りに情熱を燃やした時間とは、全く意味合いの違う、三十二歳の真剣な賭けだったのです。
 数日後、文学座から一通の封筒が届きました。中身は、残念ですが文学座では貴方を必要としていません、という意味のことが書かれた一枚の紙切れでした。
 気持ちを新たにして、また演劇活動を始めたいという願望から、身の回りのこと(親も妻も弟たちも、自分にかかわる諸々のことを含めて)を犠牲にして、のめり込んできた一年間。形としては×という結果が出たわけです。しかし、無形のものは沢山私の中に残りました。
 ただ、二十代の若いときと違って、もっと突き詰めた状況でのこんなことだったため、張り詰めて頑張った分だけ、変に虚脱感が強く、しばらくは、ただぼーっと頭の中が空白になって――。妻の方を見ると、じっと通知書を見つめる目に、みるみる涙がふくらみ、頬を伝って流れ、黙って我慢していた姿を今でも鮮明に思い出します。
 この頃、母親と一緒に住むことが、かえって精神的にも生活面でも、迷惑をかけることになっていたので、すぐ下の弟に母を頼み、私たち夫婦は、池袋にあった六畳一間のおんぼろアパートに住んでいました。
 そのがらんとした部屋の、六十ワットの電球の下、虚ろな目で一点を見つめ、ぽつんと座っていた一組の夫婦。そう私たちです。そんな光景が何かの時にふっと脳裏をよぎります。
 人間一生の中で、死ぬまで忘れられない、強烈な残像として刻み込まれた情景が、いくつかあるものです。
 自分の生き様にかかわる、すべての事柄の中に――。
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by masashi-ishibashi | 2008-07-04 12:46



俳優石橋雅史ぶらぶら日記
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