石橋雅史の万歩計

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負けるわけにゃいきまっせんばい! 40

 ここで一年間の出来事をだらだらと書いていたのでは、まことに退屈で仕方がありませんから、大して興味もないでしょうjが、ご参考になるならないは別として、研究所日誌風にして記しておきましょう。

  <四月十日>
   アトリエにて入所式。研究生四十名、聴講生八名入所。

  <四月十二日>
   訪中新劇団「大つごもり」の稽古見学。

  <四月十五日>
   「友絵の鼓」見学。

  <四月二十四日>
   俳優座「ザ・パイロット」見学。

  <五月六日>
   小田島雄志先生の英国演劇史開講。

  <五月十九日>
   「自由の最初の日」舞台稽古見学。

  <五月二十一日>
   尾崎広次先生の新劇史開講。

  <六月十六日、十七日>
   米、クラーマン演出「夜への長い旅路」見学。

  <七月二十日>
   第一回発表会「女の一生」指導、戌井市郎。

  <七月二十一日>
   欧米演劇の特別集中講義。アメリカ、ロシア、ドイツ、フランスについて、各々、鳴海、       池田、岩淵、安堂の諸先生。

  <七月二十二日>
   NLT「バージニアウルフなんか恐くない」見学。

  <七月二十四日>
   「花咲くチェリー」見学。

  <八月二十六日>
   松崎仁先生の日本演劇史開講。

  <十月一日>
   「かもめ」見学。

  <十月五日>
   第二回発表会「エチュウド」指導、岩村久雄。

  <十月十三日>
   「戦場のピクニック」「青い風船」の稽古見学。

  <十月三十日>
   「おおつごもり」見学。

  <十一月一日>
   劇団仲間「南ベトナムからの手紙」見学。

  <十一月四日>
   第三回発表会「釣堀にて」「好晴」「大寺学校」指導、竜岡晋。

  <十一月五日>
   第三回発表会二日目。

  <十一月六日>
   梅本重信先生「テレビ演技」開講。

  <十二月二日>
   「第六回演劇講座」(日本演劇協会主催)に多数出席。

  <十二月二十七日>
   第四回発表会「二号」指導、木村光一。

  <一月十二日>
   劇団研究生発表会「根っこ」見学。

  <一月二十二日>
   「女学者」見学。

  <二月十四日>
   俳優座「落葉日記」見学。

  <三月九日>
   卒業発表会「大つごもり」「結婚の申し込み」「鋏」「思い出を売る男」指導、戌井市郎、       竜岡晋、藤原新平、加藤新吉。

  <三月十日>
   卒業発表会二日目、卒業式。

 以上が一年間にあった事柄の抜粋です。
 勿論、日曜祭日以外の日は、毎日朝から夕方まで、先に挙げたような、いろんな授業があり、そしてとりあえず私の試みは終わりました。
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by masashi-ishibashi | 2008-06-24 13:43

負けるわけにゃいきまっせんばい! 39

  文学座


 <三十二歳の研究生>

 目的をはっきり方向付けて生きることが、精神衛生上も、またあらゆる意味で一番大切なことだし、それこそが最良の薬なんだと意を決して、長年、文化座の経営宣伝に貢献し劇団を支え、その頃、文学座に移籍して劇団経営に手腕を発揮していた、元文化座仲間の阿部義弘氏を通じて、文学座の戌井市郎先生にご相談したんです。
 何故、文学座を選んだかというと。今まで八年間もいた文化座は、歴史のある老舗の劇団ではありますが、少々政治色が強かったことと、個性の強い演出家(もちろんいい演出家ではあります)が一人だけで演出をしていたために、芝居創りとか演技システムに、かなり偏りが出てきているのじゃないか、と思いはじめていたものですから、個人商店のようなワンマン劇団ではなく、新劇では一番古い歴史を持ち(昭和十二年<1937>創立)、それぞれに大人の考え方を持っている創造集団、演出部も文芸部も演技部もしっかりしていて、中道思考といいますか、芸術至上主義の芝居創りを標榜しているこの劇団で、芝居を見つめなおすのが一番だと判断したからなのですが、どうしてどうして、何時ものことながら何事も、すんなりと自分の思うようには運びません。
 その頃文学座は、パンか芸術かで二度の分裂を起こし(勿論、そんな単純な問題だけでもないでしょうが)、脱退した人たちが劇団雲とNLTに分かれ、それに欅が出来、その後、雲がまた分裂して、昴や円などの演劇集団を作った頃で、劇団内の神経もぴりぴりしている時でして、いろいろ問題もあるから、しばらく、文学座の付属演劇研究所の連中と一緒に、アトリエで勉強をしてみたらということになり、昭和四十年(1965)四月、付属演劇研究所五期の、これから演劇を目指す若者たちと一緒に、イロハのイの字からやり直してみることにしたのです。時に三十二歳。もういつの間にかいいオッチャンですよ。
 周りの人から見れば、大劇団でこそないけど、文学座の次に古い、ちゃんとした老舗の劇団にいて、マスコミの方もそこそこにやっていた俳優が、何でまたいまさらと思うでしょう。でも私としては、芝居というもの、また劇団のありようを、別の角度から、何としても確かめずにはいられなかったんです。
 高校や大学を出て、そのままストレートに入所してきた人たちにしてみれば、自分たちより十歳以上も年上の私を見て、変わった人間がいるもんだなあと思ったでしょうね。
 このとき、研究所に来ていた、異質というか変り種は、私のほかに、歌手から作曲家に転向した平尾昌晃、歌手だった藤木孝などで、平尾昌晃氏はその後作曲家で随分売れましたね。藤木孝氏も俳優で頑張っています。
 研究所での教科内容は、大学の演劇学科で受講したことや、太陽座、文化座の研究所でやってきたことと大差はありません。演劇史、声楽、言葉の発声訓練、詩の朗読、お芝居のための体を解放する体操、バレエ、エチュウド、芝居の稽古、発表などなど。しかし内容は同じでも、指導する方々の感性の違いで随分と表現の方法も違ってきます。ですから今考えてみても、この昭和四十年という一年間は、いろんな事を、私の俳優人生にプラスしてくれたと思っています。
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by masashi-ishibashi | 2008-06-23 16:24

負けるわけにゃいきまっせんばい! 38

 しかしその症状の現れる頻度は激しくなるばかり。家で夜中に目が覚めても、言い知れない恐怖感に襲われてパニック状態になり、電車やエレベーターに乗れば、ドアが閉まったとたんに、心悸亢進して、空気が無くなったように苦しくなる。人ごみの中では、山のように大きな黒い波が、覆いかぶさってくるような幻覚に襲われ、恐怖で動けなくなり蹲る。こんな状態ではもう仕事が出来ません。
 ついに堪らず、家の近くにある精神病院に泣きつきました。なんせ清瀬は病院の町ですから、お誂え向きにちゃんとそんな病院もあるんです。受付に案内を乞いますと、それは神経科ですとのこと。そいうことにはまったく疎いんで、今まで知りませんでしたが、神経症と精神病はまったく違うんだそうでして、つまるところ科も分かれてる、とこういう訳。同じ病院の中ですからどっちでもいいようなものですが。周囲を見回してみますと、完全に狂ったり惚けたりしている人の方が、何も分からなく不安もなさそうで、何だか天下泰平楽みたいですよ。それにしても、あの束ねた鍵をジャラジャラと腰にぶら下げて、看護婦さんが通り抜けたけど、あの奥は一体何なんだ? なんて考えたりして。
 余計なことを考えてる場合じゃない、まずは自分のことです。早速、診察室に呼ばれまして、院長先生なる方にことの顛末をお話しますと、先生いわく「はっきり言うと」。いや、はっきり言って脅かしてくださらなくても結構なんですが…… 。この症状は「不安神経症」「閉所恐怖症」なんだそうです。急に何とも言われぬ不安に襲われ、動悸や眩暈がして、このまま死んでしまうのではないか、気が狂うのではないかとの、不安と恐怖感に襲われ、体が冷たくなり、息苦しく、吐き気がして冷や汗をかき、脳貧血のような状態におちいり、心電図や内科的検査では、なんの所見も認められないという、典型的な症状なんだそうです。いわゆるノイローゼです。
 この心因性の病は、突然かかるのではなくて、長い間かかって現在まで生きてきた環境が、その要因をその人の中に内在させ、あるきっかけ、例えば家庭の不和とか職場のいざこざ、肉親の死とか失恋、仕事の失敗、生活の不安などの、精神的な悩みが引き金となって、症状を現すんだそうでして、これを治すには、精神療法が主なんだけど、発症するまでに重ねた年数はかかるんだそうです。少なくてもですよ。これはショックです。
 考えてみれば、昭和二十一年(1946)に引き揚げてきて以来、ろくな生活ではなかった。まして、同二十六年(1951)、高校三年生になったばかりの時に父親に死なれ、同二十七年(1952)、一人で東京に出てきてからは、四六時中、貧困と不安の中で生きてきたんです。
 これは参ったなあ――、 十年以上かかる計算だが、仕事をしなきゃ生きて行けない。誰も頼れる人はいない一人ぼっちなんですから。しかしこんな状態では、仕事をやりたくても出来やしない。だからといって、たとえわずかな仕事でも、何とかして働かなければ、一文無しのからっけつで生きる術もない貧乏暮らし、大尽じゃないんです。
 一時は絶望的になって落ち込みましたが、今まで長い年月、男一匹負けてたまるかで生きてきたんです。精神安定剤をもらって開き直りました。人間どっちにしたって何時かは死ぬんだし、何処でどんな死に方をするかも分からないのに、先の先まで、不安材料ばかりを抱え込んで悩んでいたのではお笑い種だ。今までそんなこと考えもしなかったし、その時その時で、ちゃんと事態に対処して生きてきたんだ、また出来たじゃないかと。でも自分の意思とは裏腹に、どうしても神経の方が、勝手に狂ってしまうんです。本当に泣けてきましたよ。
 動けない状態がどれくらい続いたでしょうか。薬で自分を騙し騙し、周囲の人にも気づかれないように、細々と仕事をする日々が。
 そうなんです。食べていくのもやっと、その日その日を生きていくことだけにうじうじして、これから先、俳優としてどう生きていったらいいのか。目的というか、しっかりした方向付けにもまだめどがつかず、そういうことも情緒不安定の材料として、心の中に、ずっとしこりのように引っかかっていたんです。
 文化座を退団して、わずか四ヶ月も経たないうちに、それこそ身も心もずたずたになってしまい、まったく俺って奴は弱い奴だなあと、つくづく思いました。
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by masashi-ishibashi | 2008-06-21 18:03

負けるわけにゃいきまっせんばい! 37

 <神経症>

 しかし現実問題としては、多少の無理をしても仕事をしないというわけにはいかないんです。自転車操業ですから、漕ぎやめたとたんに倒れてしまいます。
 こんな状況で、胃には胃潰瘍、盲腸の手術というハンディキャップを抱えて仕事をしていた、昭和三十九年(1964)も師走に入ったある日。三浦半島へロケーションに行く途中、京浜急行の電車の中で、本を読んでましたら急に気分が悪くなり、疲れかなと思って目をつぶったとたんに、今度は呼吸が苦しくなって、いくら息を吸っても酸素が入ってこないみたいな、眩暈はする脂汗は流れる、急行ですから最寄の駅には止まってくれないやらで、完全にパニック状態。
 このときは胃潰瘍からの出血で貧血を起こしているのか、でなければ手術の後のトラブルかなと思っていたのですが。
 とにかく現地に着いて、移動するロケバスの中でも同じ症状が現れるし、また宿泊ロケときて最悪。
 時代劇のロケーションといえば、まず大抵は人里離れた山の中とか海岸線、離れ小島等など、辺鄙なところが多いものですから、もしそんな所で胃に穿孔が出来たら、「胃の内容物がお腹の中に飛び散って、腹膜炎などを起こし手遅れになるよ、お腹の中は丼を洗うようなわけにはいかないんだよ」と、いつも医者に脅かされていたことが、強迫観念となって付きまとい、本当のところは地方ロケに行くたびに、見えない胃の傷に怯えながら仕事をしていたんです。
 撮影の方は、何とか自分を騙し騙し責任を果たしたのですが、ロケ現場から自宅へ帰る途中でも、人ごみの中、電車の中と、同じ症状を繰り返すものですから、ついに渋谷駅で途中下車。宮益坂を上りきった辺りにあった、ちょっと大きな某病院へ飛び込んだのです。ところが生憎日曜日ときている上に、医者が野球をやりに行ってるって言うんですよ。まったくの話困り者。この危急存亡…… いやいやそれは私の勝手――。 ほどなく帰ってきた医者は、少しばかり問診をして、「よしよし、じゃあ強心剤を注射しておこう」と、注射を一本打ってそれでおしまい。冗談じゃありませんよ人の気も知らないで。威勢が良くなったのは、心臓のポンプだけじゃないですか。そうでなくても、断続的に言い知れない恐怖感に襲われて、異常に動悸がするというのに、いいかげんなものです。脈拍も百以上に跳ね上がって、これじゃ尻から煙を吐いて走り出しちゃいますよ。
 そんなことでかかりつけの診療所へ行って、いろいろと検査をしてもらったのですが、結果は、胃潰瘍もほとんど治りかけているし、その他、血液検査、尿検査等の数値も、レントゲン検査も心電図も正常。もしこの状態が続くようだったら、すぐに神経科へ行くようにと指示を受けまして、バランスという緑色の粒の精神安定剤を貰ったんです。
 考えましたよ。何で私が精神病院へ行かなければならないんだって。
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by masashi-ishibashi | 2008-06-19 13:54

負けるわけにゃいきまっせんばい! 36

 といったわけで、絶対に辛抱しちゃいかん、もう駄目だと思ったら直ちに救急車を呼んでもらって、病院へ直行するようにと厳重に因果を含められ、応急処置を受けて外へ出たのですがそこまで。だらしのない話だが完全にギブアップ。一歩も先へ動けないし、それどころか立ってることさえ出来ない。小さな石ころを踏んづけただけで、頭のてっぺんまで激痛が突き抜けるんです。ついにダウンして、自宅に一旦戻ることもならず、診療所から車を呼んでもらい紹介状も書いていただいて、手術の出来る小平の昭和病院へ直行。早速、白血球だの血液凝固時間だの、何だかだと検査をされ、その日のうちに切腹という情けないことになりまして、若い看護婦さんに、アソコの毛をジョリジョリと、安手の軽便剃刀で容赦なく剃り落とされ……。そういえば、馬鹿にくそ真面目な顔で念入りに剃ってたけど、ああいう時はどんなことを考えてるのかなあ――? ま、いいか。そのあと精神安定剤か何かを腕の付け根に打たれ、ストレッチャーでエレベーターに乗せられ手術室まで行くのですが、死刑台のエレベーターじゃあるまいし、付き添ってる看護婦の顔が、白衣の天使ならぬ看守の顔に見えたりして。手術室に入ると、手術服に帽子、マスクをかけゴム手袋をして、天井からぶら下がったライトの下で待ち構えているスタッフの姿が、なにか無表情な死刑執行人って感じ。手術台の上にごろんと芋虫のように転がされて、腰椎の辺りに麻酔を打たれ、患部の上辺りをヨードチンキのようなもので、ポンポンと消毒してるなあと思っていたら「痛いですか? どうです? ……」と医者のたまわく。痛いですかじゃありませんよ。そんなこと言いながらもう勝手に切っちゃってるんですから、人のお腹を。
 しかし、あれは人間のお腹だと思ったら、なかなか切れないかもしれませんね。マグロを三枚に下ろすようなつもりでないと。でなければ外科医はみんな冷血漢とか。
 そして、あとで言うことが憎らしいですよ。「そうだ、あなたは俳優さんでしたね、じゃもう少し切り口を小さくしておけばよかったなあ」ですって。空々しいったらありゃしない。どうせ私は無名の役者ですからね。
 もうどうでもしやがれ、さあ殺しやがれと開き直りましたが。慌てたのは製作会社ですよ。三日に上げず果物などを持って見舞いに来てくれるんです。最初は、こんなに迷惑をかけてるのに申し訳ないと、この好意に対して偏に感謝していましたが、製作会社の人の顔を見て、はっと気がつきましたね。「忍ぶれど色に出にけりわが恋は…… 」ですよ。早く退院して現場に復帰してくれなければ、当方としては困りますって、ちゃんと顔に書いてありますから。まあ、仕方ないでしょう、会社とはそういうものなのです。ちっぽけな個人より、会社の大きな利潤です。
 まだ、傷の縫い目が、笑っても咳をしても、思わず体を折り曲げるほど痛いというのに、それじゃ勝負をしようじゃないのと強がって、抜糸前の体に鞭を打ち、そろりそろりと屋上に上がって、体を動かしウォーミングアップ。
 やっぱり若さですかね、予後の経過も順調で一週間目には抜糸。あの消毒臭い陰気な病院を後にし、牛に引かれて善光寺…… じゃない、女房に手を引かれてよちよちと懐かしの我が家へ。
 ほっと一息ついたのもつかの間。退院三日目には待ってましたとばかりに、演技課から召集令状。まったく仕事は戦争みたいなものです。生きるか死ぬかという感じですから。そこがまた俳優の弱い立場というか、その性の泣き所といいますか、その場になったらやってしまうんですからね。
 傷口を庇いながらやった、たった一日のこの仕事(ラストの立ち回り)が、この後、数年間体調に祟ろうとは――。
 盲腸の手術って簡単なようですけど、これで腹膜炎などを併発して、亡くなる人だって中にはいるんだそうです。それに抜糸後、二週間ぐらいは安静にしていないと、虫様突起を引っ張り出す時に動いた、他の内臓が正常に納まらないんだとのこと。そんなことも知らないで、意地になって立ち回りなんかやっちゃったものですから。
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by masashi-ishibashi | 2008-06-18 15:01

負けるわけにゃいきまっせんばい! 35

 <虫垂炎 (盲腸)>

 そんなある日、テレビ映画を撮影している最中、翌日にラストのアクションシーンを撮影すれば、クランクアップするという日の夜中になって、いきなりキリキリッと腹痛を起こし、おまけに発熱。それも三十九度を越える高熱。「さてもさても、これぞまさしく鬼の霍乱」いやいやそんな芝居を気取ってる場合じゃないんです。体を海老のように曲げて脂汗を流し、歯を食いしばって苦悶の極み。とうとう我慢しきれなくなりまして、「医者を頼むぞえ女房殿」という仕儀に相成り、こうなるとまったく男一匹だらしのないものです。女房はといいますと、オロオロしてびびってるんです。怖いって? 俺の形相がそんなにひどいのか! 薄情な奴め! と思ったら、そんなんじゃない、財政困難のみぎり我が家には電話を引いていなかったものですから、この夜中に医者の所まで歩いて行かなければならないわけで、そりゃ怖いですよね。私だって嫌ですよ。今はもうおばあちゃんですけど、あれであの頃はうちの妻も若くて可愛かったんですから? (この際こう言っておかないと、沢山借りがありますからね……)。そのころ住んでいた所は清瀬市。同じ東京でも当時まだ北多摩郡清瀬市といってすごい田舎。国立結核療養所やら、いくつかの大きな専門的病気療養所があるだけの淋しい町で、一般外来の患者を診る医者のところまで行くには、近いところでも自宅から歩いて十五分以上かかるんです。その間、民家はほとんどないんですから、気の弱い人なら男だって怖いですよ。「東山三十六峰、草木も眠る丑三つ時」 講談じゃありませんが、この真夜中にこんな時ばかり女房さま様で、女性一人に行かせようなんていうのがそもそも無茶な料簡。そこで階下に寝ていた弟をたたき起こし(どこまでも自分勝手な男なんです)、これを用心棒に仕立て。いかにも頼りないがこの際背に腹はかえられません。寝起きの悪いやつを叱咤激励。いやいや励まされるのは私のほう。とにもかくにも出立させましたが、医者の方だって大迷惑です。それでもよく来てくれましたよ、仏頂面はしてましたけど。こういうときは出来るだけへりくだってヨイショ…… じゃない、ご足労をねぎらわなければなりません。
 なんたって夜が明ければ、ラストの撮影シーンが待ってるんですから。
 「虫垂炎(盲腸)の症状だが、こんなに熱が高いというのがどうも分からないなあ、とにかく今夜は痛み止めと化膿止め、それに解熱剤を注射しておきますから、明日の朝もう一度、診療所の方へ来てください」。ということで、その宿直医の先生さっさと帰っちゃつた。
 翌朝早々、制作担当に連絡を取り、事情を話して少し遅れる旨を伝え、女房に連れられて診療所に伺いましたところ、即入院手術といきなりこれですからね。「そんなこと勝手に決められても困ります、女房を付き添いにしてでも行かなきゃ、撮影所でオールスタッフ、キャストが待ってるんですから、先生何とかしてくださいよ」って頼みましたら、「この症状では、もう手術以外にないと言ってるのに、あんた死にに行くつもりかね。あたしは命の保証はしませんよ!」と一喝されてしまいましたが、そりゃ私だって出来ることなら休みたいですよ。苦しくって脂汗を流してるんですから。手遅れになって病気を重くしたり、命を落としたりする俳優が時々いますけど、俳優という仕事は、厳密な意味では代わりの利かない仕事ですから、こんな時は本当に辛いですね。これで私が入院のために撮影が出来なくなって、他の俳優さんで最初から撮り直すとなれば、それだけでも莫大な制作費がオーバーするでしょうし、折角調整してあった、出演者やスタッフのスケジュールも滅茶苦茶になってしまうのです。
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by masashi-ishibashi | 2008-06-17 13:12

負けるわけにゃいきまっせんばい! 34

 この頃です。自分で売り込み用の写真を作り、自分のプロフィルを印刷して、各テレビ局の製作部や演出部に自分で売り歩いたのは。でも足を棒にして歩いたにしてはまったくの徒労でした。人の顔をろくに見もしないで、横を向いたまま「あ、そう、そこに置いといて」と言ったきり、話にも乗ってくれないプロデューサーやディレクター。にこにこしながら話に乗ってくれても、「そう、劇団辞めたの、大変だねえ。考えとくよ」と言うだけでさっぱり梨の礫、せめて山の谺程度でも反響が返ってくればまだいいのですが、私のやってることは鉄砲玉のようなもので、飛んでいったっきり帰ってこないんですから。仕事という施しを受けるために、自分が卑屈になっているようでどれだけみじめな思いをしたことか。いや、現実とはかくも厳しきものかなってやつです。八方塞がりで目の前真っ暗。
 頼りは空手の師範代理。これだって空手で生業を立てるつもりは毛頭なく(あの時、外国から何度もあった招聘を承諾していたら、今頃は向こうでプール付きの大邸宅に住んでいたかな? 呑気なことを言ってる場合じゃない)、自分で道場を経営しているわけじゃありませんから、わずかな手当てを貰うくらいでは満足になど食べていけません。それどころか、自分で選び、生涯の仕事と決めてこれまで来た俳優の道に、何の保証もかすかな光さえ見出せない、どん詰まりの断崖に立たされては、益々、思考力に柔軟性というか余裕がなくなり、下手な考え休みに似たりで、何の妙案も浮かばず精神状態は錯乱寸前。焦燥は極みに達して、今やご乱心あそばすのではないかとわが身を危ぶむ状態。
 しかし、捨てる神があれば拾う神もあるの譬えで、「空手風雲児」の時、制作に関係していた文芸プロダクションのマネージャー(あえて名前は言いませんが)が親切に、プロダクションには内緒で、時々仕事を回してくれるようになりまして、TBS制作「美空ひばり劇場」の<唐人お吉>で三回完結のレギュラー、ヒュースケン(ハリスの通訳)の役をやって、ひばりさんともお芝居をしたり、当時、大蔵映画で撮っていた<第三の男>(今井健二主演)のゲストなどをぽつぽつと。しかし、部屋代を払って食べていけるほどのものではありません。その頃女房は、女優業を断念し他の生き方を模索していましたが、相方がこんな状態だものですから、意に染まないお勤めなどをして生活を支えるといった有様。こっちはまったく形無しの体たらく。劇団にいたときは、まだ劇団という拠りどころがあり。劇団活動という名の変な誇り(実際は埃みたいなものですけど)と支えがありましたけど、フリーになったとたんに、仕事をしている時だけが俳優で、クランクアップするのと同時にただの人。次の仕事が決まるまでは失業者です。無名の俳優としてはその方が多いのですから、毎日毎日、部屋に閉じこもっていると、さすがに、何食わぬ顔で亭主関白を装っているのとは裏腹に、心の中では小さくなって、窒息しそうで身の置き場がないというか、精神不安定になって。
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by masashi-ishibashi | 2008-06-16 13:49

負けるわけにゃいきまっせんばい! 33

   退団が意味したもの


 <八方塞がりお先真っ暗>

 昭和三十九年(1964)九月、東京オリンピックが開催された年。劇団に辞表を提出。一応は円満に退団させていただきまして。
 とりあえずは少し頭の中を整理しなければと思いましたが、なにしろ何の当てもないのに自分の気持ちに嘘がつけなくて、今、辞めなければこのままでは駄目になる。どっちにしても駄目でもともと、辞めなければ新しいものは開けてこないのだ、という焦りもあって闇雲に飛び出したものですから、わずかな給料も、マスコミのマネージメントをしてくれる人も急になくなり。また俳優として生きていく方向とか場も、どう思考しても井の中の蛙で像を結んできません。経済的にも精神的にも、大変不安定な状態が続き、当時患っていた胃潰瘍が悪化して、タール状の黒い血便が出るようになっていました。
 ともあれ思案投げ首だけでは何事も成就いたしません。機に発して感に敏なること。当たって砕けよの敢闘精神。霞を食って生きていくわけにはいかないんですから。ところが文化座時代からの繋がりで、ひょっこり、日本テレビ系で放映される「空手風雲児」という、新番組のレギュラーが入ってきたんです。しかしありがたいと思ったのもつかの間、視聴率が上がらないという理由で、ツークール(二十六本)撮るはずだった作品が、あっという間にワンクール(十三本)で打ち切りになってしまって。なかなか美味しい話はありませんね。だけど、やはり印象の薄い作品だったのかな…… 三浦半島の方へよく撮影に行ったり、監督は島津昇一さん、一緒に葉山葉子さんもレギュラーで出演していたことなどは憶えていますが、どうも主役を演じた青年の顔が思い出せないんですよね。
 今まで劇団という小さな砦の中だけで生きてきた極楽トンボですから、外に出たのはいいがマスコミの世界など右も左も分かりません。自分のやってきたことだけが正しい(芝居に対する)などと、思い上がって生きてきた、頭でっかちアホウドリ。まして三十一歳にもなった組織を持たない無名の俳優など、誰も相手にしてくれよう筈もなく。どこのプロダクションでもそれはごく当たり前のことで、それこそが現実なんです。自分たちの劇団の中だったからこそ、曲がりなりにも通用していたのであって、世の中そんなに甘いものじゃないし、私など知らないことばかりのずっと広いものなのです。
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by masashi-ishibashi | 2008-06-15 15:38



俳優石橋雅史ぶらぶら日記
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