石橋雅史の万歩計

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負けるわけにゃいきまっせんばい! 32

 一年に大体二回の本公演。それに、全部ではありませんが、再演やらかなり多くの地方公演がありますから、八年間在籍した間に、出演、裏方と、随分多くの舞台を体験しました。昭和三十二年(1957)三好十郎作「その人を知らず」(役名 組合員。俳優座劇場)。昭和三十三年(1958)三好十郎作「浮標」(裏方。 俳優座劇場)。昭和三十三年(1958)三好十郎作「炎の人」(役名 画家シニャック。一ツ橋講堂 芸術祭団体奨励賞受賞)。昭和三十四年(1959)三好十郎作「獅子」、チエホフ作・伊賀山昌三翻案「結婚申込」(裏方。 第一生命ホール)。昭和三十四年(1959)三好十郎作「炎の人」再演(役名 ゴッホの従兄画家モーブ。西日本・東北地方巡演)。昭和三十四年(1959)三好十郎作「冒した者」(裏方。 都市センターホール)。昭和三十五年(1960)山代巴作・寺島アキ子脚色「荷車の歌」(役名 荷車引きの男6。 都市センターホール)。昭和三十五年(1960)アンダースン作「ウインターセット〈冬の終わりに〉」(役名 左翼の男。都市センターホール)。昭和三十六年(1961)小幡欣治作「埠頭」(役名 日雇い港湾労働者テッポー。都市センターホール)。昭和三十六年(1961)山代巴作・寺島アキ子脚色「荷車の歌」再演(役名 荷車引きの男6。東海・関西・西日本・東北・関東地方巡演)。昭和三十六年(1961)山代巴作・寺島アキ子脚色「荷車の歌」再々演(役名 荷車引きの男6。都市センターホール)。昭和三十七年(1962)山代巴作・寺島アキ子脚色「荷車の歌」再々々演(役名  荷車引きの男6。都市センターホール)。昭和三十七年(1962)三好十郎作「炎の人」再々演(役名  ゴッホの従兄画家モーブ。都市センターホール)。昭和三十七年(1962)ハイエルマンス作・久保栄訳「漁船天佑丸」(役名 メエス。都市センターホール)。昭和三十八年(1963)小幡欣治作「埠頭」再演(役名 日雇い港湾労働者テッポー。東海・西日本・東京厚生年金会館・関西巡演)。昭和三十八年(1963)長塚節作・大垣肇脚色「土」(役名 住職。都市センターホール)。昭和三十九年(1964)には「土」の全国巡演などと、本当にいい勉強をさせてもらったと思っています。だから心に残る想い出が一番多いのです。


 <文化座とのお別れ>

 しかし一方翻ってみると、それらのことで、劇団内部のあり方や、芝居の奥が分かってくればくるほど、これまでこれが絶対に正しいと思ってやってきた考え方も、つまるところは、自分の所属する劇団という小さな世界でしかものを見ていなかったようで、芝居創りも勿論そうだし、テレビ出演なんかも、舞台活動のための稼ぎの手段で、アルバイト感覚でやってきた部分が多分にあり、先方に対して本当に失礼極まりなかったと思っています。
 自分のやっていることは絶対に正しいんだと一途になる時期が、若いとき必ず一度はあるように思いますが、何かのきっかけで流れが変わってくると、本能的に違和感を肌で感じ、見えない世界への不安が、とめどなく膨らんでくるものです。私の内にも八年目にして、今まで俺が貧乏に甘んじて、八年間やってきたことは何だったんだろう? このままここに居たら駄目になってしまうんじゃないだろうか? 芝居の世界をもっと広い目で大局的に見る必要がある。そんな状況が、あれほど情熱と愛情を持ってやってきた劇団の中に起き始めていたのです。
 それを契機として幹部の一人が去り、中堅の六、七人が退団して新しく劇団を結成。私などは何の青写真もなく衝動的に飛び出したアホウドリ。
 芝居三昧に明け暮れた八年の歳月は、多くのよき友と青春の想い出を創り、脱退した仲間にも四組のカップルが生まれていました。私たち夫婦もそのうちの一組ですが、いろんな意味で、かけがえのない素晴らしいものを、自分の血肉にして積み重ねたことも紛れのない事実です。
 しかし時の流れとともに、人生は明日を求めて、常に止まることなく流れ続けていくのです。また自分の願望とか意思とはまったく別の方向にも。ある人はそのまま俳優の道を、ある人は画家に、ある人は業界新聞の社主に、ある人はサラリーマンにと。大学時代に同じ演劇学科で学んだ学友たちも、皆そうですけど、人間、必ずいつかは何らかの形というか理由で、別れなければならない時が来るものです。
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by masashi-ishibashi | 2008-05-29 19:23

負けるわけにゃいきまっせんばい! 31

 とにかく現地入りしたとたんに、トラックから大道具、小道具、衣裳笊籠(行李)、音響効果機器、照明器具等を担ぎ下ろして、早速舞台の仕込みにかかります。一応の形が出来上がったところで、にわか拵えの楽屋(ほとんどが仮設でした)に入り(もうその時は汗だくのほこりまみれ)メークアップをして衣裳をつけ、それからやっと舞台に立つ気持ちに切り替える。何度も言うようですけど本当にもう戦争。それだってどうしても手が足りない時は、扮装をしたままガチ袋(大工さんが腰にぶら下げてる、釘とか鎹が入ってる袋)をぶら下げて、トンカチを持って駆け回り、幕間の舞台転換を敢行、そのまま舞台に出て芝居をやる、なんて芸当もこなさなければならないのですからもう大変。そのままったって、ガチ袋をぶら下げたまま舞台に出るわけではありませんよ。そうでなくったってしょっちゅうトンチンカンをやらかすんですから。
 夜、舞台の終演と同時に今度は搬出です。大道具をバラし、衣裳、小道具を笊籠に詰め込み、その他諸々を集めて、搬入とは逆の順序でえっさえっさとトラックに積み込んで、次の公演地へ送り出す。私などは下っ端ですから、他の何人かの仲間と順番を決めて、毎回一人ずつ交代でトラックの上乗り(積荷の管理上、運搬中の荷物と一緒に乗っていくこと)をさせられるんです。これが現在のように、整備された自動車道路なんてないんですから(高速自動車道も含めて)。でこぼこで九十九折りの山道、海沿いの街道、揺られ揉まれて旅がらす、道中合羽に三度笠、ほこりまみれの雅兄ィ、次の宿に着く頃はもうぐったりしちゃって、我が魂はいずこの空を飛びおらむ、いつの間にやら白河夜船ってな具合でしてギブアップ。夜中、現地に着いても、現在のようにビジネスホテルに泊めてもらえるわけでもなく、旅館の大部屋に皆で雑魚寝です。しかしこんなことで音を上げていたのでは大物になれない。などと虚勢を張ってやってきた割には大物になってませんけど。
 ともあれ、この頃の新劇の旅公演なるものがいかに大変だったか、その一端が少しはお分かりになると思います。
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by masashi-ishibashi | 2008-05-25 14:27

負けるわけにゃいきまっせんばい! 30

 稽古中、役創りに行き詰まり、山谷のドヤ街で、演技プランを書きかけたノートを枕元に置いて自殺した友人。伊豆下田の先にある子浦という漁村で合宿をした時、仕事の徹夜明けで一緒に来た日本テレビのスタッフの一人が、折角、疲れを取る息抜きだった筈なのに、泳いでるうちに心臓麻痺をおこして亡くなり、合宿所にしていたお寺でお通夜をしたこと。これらは何ともやりきれない追憶ですが。また、その時は首でも縊りたいくらいの気持ちだったくせに、今となれば笑い話になってしまう、舞台の進行中に起きたハプニング(後の項でご披露しますが)とか。旅公演の途中でに起きた集団食中毒事件。
 どうも高松の旅館で食べた海老だか刺身だかがいけなかったらしい。四国の高松から乗船した宇高連絡船まではよかったのですが、宇部で下船して次の公演地岡山市に向かうために、玉野市から乗った宇野線の電車の中で最悪の状態。熱は高くなり、腹痛と下痢を我慢するのに、身を捩って苦悶の形相凄まじく、顔面蒼白、脂汗たーらたら、ここで漏らしては男が廃る。なんせこの電車にはトイレがなかったのです。次の駅についたとたん最早これまでと、とうとう飛び降りて駅のトイレを拝借に及びましたが、いやあ、済ませた後のあの気分は何とも言えませんね。熱はあるし腹がしぶってますから、気分爽快とまではいきませんが、肩で大きく「ほーッ」息をつき、脱力感と言うかしばらくうっとりとした気分で。
 この事件は私のほかにも同じ症状を訴えた人が数人いまして、遅れて現地岡山で本隊と合流、お医者さんを呼んで診てもらい、解熱剤の注射を打ち抗生物質の薬を飲んで、その日の舞台をつとめましたが、代役を立てて休むと言うわけにもいかず、体の不調と責任の狭間で心細い思いをしたものです。これもこの仕事を選んだ人間の宿命ですね。旅公演というのはかなりハードなスケジュールが組まれますので、いかに若いとはいえ、どうしても体力、抵抗力が低下してきます。


 <当時の旅公演>

 旅公演の期間は長い時で全国津津浦浦約三ヶ月にも及ぶことがあり、西から東に移動するとき一度だけ東京に帰って、旅ごしらえを整え直してまたすぐに出かける。とまあこんなスケジュールで、しかも、劇団にお金がないものですから、劇団員全員がいろいろなパートを担当し、各会場の舞台設営。現在のように素晴らしい文化会館などはほとんどなく、ひどい時は学校の体育館などで、ちょっとした演壇に二重(普通、180㎝×90㎝の所作台に似たもので、要するに舞台装置の床などとして使うもの)で舞台を張り出し、その前部に丸太でプロセニアムを組み、幕をさげてまずは舞台作りから始め、その上に舞台装置を組み立てるといった塩梅で。それぞれが大道具だ小道具だ衣裳だと受け持つわけですから、現地に到着したとたんにてんやわんやの大騒ぎ。まるで戦争。専門家は照明部と大道具の棟梁だけ。音響効果のオペレーターまで劇団員がやるんですから(音楽、効果音だけは専門家が作ってくれます)。
 私などは何の因果か、先輩と酒を飲んでるうちに「お前は大道具だッ!」って、いきなりご下命があり、目を白黒させてるうちに、迂闊にも「ハハッ」っと拝受してしまったのが運のつき。

   空には三日月 お座敷帰り
   今夜は酔うたわ 踊ったわ
   逢わなきゃよかった 今夜のあなた
   これが苦労の はじめでしょうか

 芸者ワルツじゃあるまいし馬鹿なことを言っちゃいけない。その先輩も今は故人となられましたけど。
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by masashi-ishibashi | 2008-05-22 13:46

負けるわけにゃいきまっせんばい! 29

 私より少し古い劇団の先輩に聞きますと、そのまた先輩の今は故人となられた丹波哲郎さんなどは、その頃外国の古着などを売っていた、「オリエンタル」という店(赤坂にありました)で買った、ダブルのスーツにソフト帽をかぶってきめこみ、劇団にやって来ては例の口舌をぶちかましていたと言います。
 丹波さんと言えば、霊界の話でも有名ですが、ある地方公演に行ったとき。ちょっと地名は忘れましたが、芝居までの空き時間に仲間数人と、その土l地にあるお城を見物にいったんだそうです。お城を見上げていた丹波さん、なぜか急に便意をもよおしてきた(多分、朝、宿のトイレで用を足してこなかったんでしょう)、すると彼は、突然天守閣まで駆け上り、新聞紙を敷くなり脱糞し、それを丸めて下界に放り投げ、おお! 爽快なり!と言ったとか。本当ですかね……。
 さて開演時間となり、丹波さんと加藤忠さん(やはり文化座の先輩です)、上手と下手から登場。舞台で顔を見合わせたとたん、二人ともさっさと両袖に引っ込んじゃった。再び出て行ったがまた相手を見たとたんに舞い戻ってきた。これじゃ芝居になりませんよね。ネタを明かしますと、お互いに出の前のメーキャップを、相手に見られないようにコソコソとやり、鼻の下につける口髭の代わりにブラックテープを貼って出て行ったわけですよ。思いもかけないことをやって、相手役をぎょっとさせてやろうと企んだ、悪ガキみたいな茶目っ気のあるいたずら心だったのですが、図らずも敵が同じことをやってきたものですから、その心底が可笑しく、思わず吹き出しそうになるのを我慢するのが精一杯で、セリフが出てこなかったんだとのこと。腹の皮がよじれて死にそうだったよと、当人たちは苦しがっていたそうですが、何を言ってますか、二人とも自分が仕掛けて自分で吹いてりゃ世話ないですよ。第一お客さんに失礼です。そうでしょう。
 やっぱりその頃から変わってたんですね。生前も仕事場でたまに会ってお話をしていると、相も変わらず煙にまかれていましたが、私が入団したころは、すでに映画の方へ移っておられました。
 創立当時は、山村聡さん、山形三郎さん、山形勲さん、芦田伸介さんなど、皆さんもよくご存知のいい俳優さんがおられたのですが、これらの人は今や皆故人となられ、そのお人柄や、いろいろなエピソードをお聞きしていなかったのが残念です。
 この文化座に約八年間在籍することになるのですが、プロという水の中で呼吸しながら、本当に、純粋に芝居と取り組んで燃えてた時代じゃないでしょうか。稽古が終わったと言っちゃ、焼酎飲んで喧々諤々。芝居が終わったと言っちゃ、泡盛飲んでニンニク齧って喧々諤々。臭い息を撒き散らし最後は酔っ払って大喧嘩。若さですよ。海綿体のように何でも吸収し目がキラキラ輝いていたと言うか。がから戯曲を読み理解する力とか登場人物の捉えかたは、この時期に培われたもので、人物を表現する演技法は、この五十年余りの間に数多く出演した舞台、映画、テレビでご一緒した演出家、監督、畑や育ちの違う多くの俳優さん方との交流や、読書、映画鑑賞や演劇鑑賞などの中から、自分なりの表現方法を創りあげたものです。
 昭和三十四年(1959)。「炎の人」の再演では、ゴッホの従兄で、画家のモーブという大役を貰い、二十六歳だった私にとってこの年功を経た大家という役どころは、大変荷が勝ちすぎてうまく演じることが出来ず、今だったらなあと慙愧に耐えません。
 この八年間は俳優として本当の出発点で、当時の仲間が集まると、その頃のことが脳裏を去来して話題に事欠きません。皆若かったんです。
 研究所でのレッスン、稽古、劇団本公演での稽古、公演、旅公演、海での夏季合宿(これは皆でいいコミュニケーションを持つための、一週間位の遊びですけど)、これらにまつわるエピソードがあまりにも多すぎて。
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by masashi-ishibashi | 2008-05-21 14:15

負けるわけにゃいきまっせんばい! 28

 <プロへのキップ劇団付きへ>
 
 昭和三十三年(1958)秋。劇団が参加し一ツ橋講堂で公演した芸術祭参加作品、三好十郎作「炎の人」(オランダの画家、ヴィンセント・ヴァン・ゴッホの生涯を描いたもの)の舞台が、芸術祭団体奨励賞を受賞したのを契機に、その舞台で画家シニャックを演じた私も、ついてるというかお情けといいますか、劇団付きの研究生に昇格させてもらい、何とかプロへのキップを手にしたわけですが、それこそこれから先がおふざけじゃない本当の艱難辛苦でして、この道を選んだこと、即ちあらゆる意味で生きることの辛酸を、死ぬまで嘗め続けなければならないことだったのだと、この年になって再認識させられていますが、この頃はまだ二十五歳の若さですからそんな損得勘定でものを考えるような、老成したけちな分別くさい考えなどこれっぽっちも持っておりません。貧乏はしていても夢だけは大きく膨らんでしっかり燃えていますから。麻疹にかかった子供みたいなものです。三日麻疹(風疹)なら三、四日で熱も下がりますが、好きが昂じてこじらせてしまった、性質の悪い重症の芝居麻疹ですから、生半可なことじゃ熱は下がりません。下着は古ぼけたのが、上下一、二枚ずつぐらいしかないものですから、洗濯すれば乾くのを待って着用する始末、靴下などは表が汚れれば裏返して履く。ひどいのは踵が露出しおまけに親指が飛び出してる。後になって考えてみれば不潔というかみじめなものですが、その頃は一にも二にも芝居が恋人ですから(格好つけちゃって)、そんなことやらろくなものしか食えないくらい屁の河童。みじめとも苦しいとも思わない。だから臭いのなんのって全くのところははた迷惑。たまりかねた劇団主宰者の故佐々木隆さん(演出家。女優 故鈴木光枝さんのご主人で、また女優 佐々木愛さんのお父さん)が、お古の靴下を二足だったか三足だったかくださったことがあります。
 とにかく当時の新劇人と言えば、よれよれのレインコートがトレードマークといったような、それこそプロレタリアぶったところがどこかにあったようですね。今はまったく様変わりしましたけど。映画出身の方なんかは古い方にお聞きしますと、まるっきり逆だったようですよ。俺たちはお客さんに夢を売る仕事をしてる人間なんだから、たとえ目刺を食ってても(今と違って目刺は貧乏人の象徴みたいなもので、昔は物凄く安かったんです。私も長谷先生に、鰯を食ってれば大丈夫だよなんて言われたくらいですから。でもあれは滋養があっておいしいですよね)身なり衣裳だけは、バリッとしてなきゃだめだぞって言われたそうです。なるほどよく考えてみれば、いやいや考えてみなくても芝居の原点はカタルシス(精神浄化)であって、自己満足というか、自分のマスターベーションじゃないんですから、みなさんに不快感を与えてはいけません。一理ありますよね。これじゃその頃の私などは第一チェックで失格です。
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by masashi-ishibashi | 2008-05-20 15:01

負けるわけにゃいきまっせんばい! 27

  劇団 文化座
 

 <文化座の付属演劇研究所へ>

 昭和三十二年(1957)。「さて、そこまで意思が固まったとなれば、とりあえずはプロ劇団の水で泳いでみるか」ということで、長谷先生が紹介してくださった劇団が文化座です。
 この劇団は、新劇としては文学座の次に古い老舗の劇団ですが、創立はたしか昭和十七年(1942)で、そのころ珍しく、高額ではないけど全員給料制度をとっていた劇団でして、劇団付研究生は三千円、準劇団員あたりはいくらだったかな? ま、一万円前後ですよ。劇団員もいくらだったか、皆さんそれぞれにいろいろと査定額があるので忘れちゃった。とにかく経営体制がちゃんと確立していて、経営宣伝部に事務員、演出部、演技部、全員に給料を出すのですから驚きました。
 財源はどうなっているのかと言いますと、ひとつには、皆が出演するテレビやラジオの出演料です。この頃はテレビの草創期でして、現在のような企画編成と違い各局ともすごくドラマが多かったんです。だから劇団としては大変な収入源だったんですね。どうやってそれを分配するかといいますと、例えば一万円の給料を貰っている人がいるとします。そうすると、その給料の一万円が基本ノルマとなるんです。ですから出演水揚げ額のうち一万円はそっくり劇団に入れます。それ以上に稼いだ金額、もし二万円その月に稼いだとすれば、オーバー分一万円のうちから、その20%の二千円が自分の収入として手元に入ってきます。つまり手取り収入は一万二千円ということになります。残り80%の八千円は劇団に積み立てるんです。そうすることによって、皆で劇団にプールした財源を按分し、劇団構成員の中で、マスコミの収入がノルマに満たない人、また全然稼ぎのなかった人たちの給料も支給して、劇団が路線とする、演劇活動を維持していくといったシステムなんですね。いまひとつは、そのころ観劇組織として日本全国各地にあった労働者演劇鑑賞会に、東京本公演で舞台にかけた芝居を売り込み、その企画が通ると、西は鹿児島から東は青森まで旅公演を打ち収入を得て、劇団員個人にもわずかですが旅手当てなるものが支給されます。言ってみれば共産コロニーに似た塩梅でして、二十四歳の私にしてみれば、これは素晴らしい劇団だなあと思いましたよ。
 もっとも、最初は文化座付属演劇研究所の研究生ですから、逆に五百円の月謝を払う立場でしたけど。
 ともあれ長谷先生のお陰で、こんなところに入れてもらい、これは頑張らなきゃと胸を膨らませたものです。この時の入所試験に合格して研究所に入れてもらえたのは、男では私が一人、他に女性が三名で合計四名。今や紅一点ならぬ、男の私だけが後家の頑張りみたいにしがみついていますけど。
 いずれにしても第一関門は通過したわけですが、ここでもまたまた肉体訓練、発声訓練、声楽、日舞、バレー、戯曲を教材に取り上げての芝居の稽古と、連日のしごきにいやいやもう汗だく。
 本公演が近くなると、劇団の稽古場はそっちに優先されるので、劇団員の人たちの芝居を見取り稽古。プロとしての第一歩を踏み出すためには、何としても劇団付きにならなければならないのですから、先輩たちの芸で、いいものは何でも盗んじゃえってんで、盗人根性猛々しく、目ん玉をひん剥きまなじりを決して。いやいや、それくらい壮絶な根性を持っていたらご立派ですけど、大体が怠け者の私のことですから。これは自他共に疑問を持つ眉唾な過剰表現でして。しかしながら、私なりに鼻の先にぶら下がった人参…… いやいやそうじゃない、ずっと遠くにあるひとつの光を、何とかして掴もうと一所懸命だったことだけは間違いありません。
 相変わらず例の荷担ぎ労働と、空手道場のアルバイトで、部屋代と食費を稼ぎながら、毎日のように劇団の稽古場に足を運んでは、基礎訓練と芝居の稽古。「何をやってんだか! そうじゃないだろう!」と、馬鹿だの鈍だのと怒鳴られ笑われても、男はじっと我慢の子。

  負けてたまるか 生きてるからにゃ
  どんと咲かせろ 男のいのち
  咲くも萎むも 根性だけさ
  のめり転がり しがみつけ
  七転八起の 人生勝負
  辛抱ひとつが 分かれ道
  男 男生涯 独り旅

  泣いてたまるか 生きてるからにゃ
  恋を棄てるも 男の意地さ
  情け振り切り 明日をもとめ
  夢にさすらう 男舟
  七転八起の 人生勝負
  耐えりゃいつかは 春が来る
  男 男生涯 独り旅

  負けてたまるか 生きてるからにゃ
  賭けてみせるぜ でっかい夢に
  散るも散らすも 男の舞台
  飛び六法で 見得を切る
  七転八起の 人生勝負
  押忍という字を 背に書いて
  男 男生涯 独り旅

 なんだかド演歌の歌詞が出来上がっちゃいましたが。
 「艱難汝を珠にす」なんてご大層なものではありません。
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by masashi-ishibashi | 2008-05-19 19:12

負けるわけにゃいきまっせんばい! 26

 <さようなら劇団太陽座>

 ここで一年ほど厄介になってる間に、北条秀司作「霧の音」(役名 正男)、三好十郎作「逃げる神様」(役名 男5)、菊田一夫作「花咲く港」(役名 横川彦八)、などの舞台に立たせてもらい、学生演劇とは違う、さまざまな生き方をしている一般のお客さんから、観劇料をいただいて観てもらう芝居創りの厳しさが、少しだけ分かったような気がしました。でも好きというだけで顔を突っ込んだ部分が大きくて、劇団という組織をどう理解できていたかは、かなり疑問があります。
 相変わらず、皆さんちゃんとした会社員や、学校の先生、お医者さんなどの勤めを持ちながらやってる演劇活動でして、持ち出しこそあっても、たとえわずかでもそこから収入を得るということは出来ず、芝居そのものが生活になってるわけではありませんでしから。もちろん、皆さんの中には、たとえ貧乏をしてでも芝居だけで活きていけたらという、願望を持っていらした方もいたと思いますけど、どうしても芝居以外で十分な生活が出来る状態では、芝居以外には何もない、生きることそのものが芝居、芝居そのものが生きることでやってる人とは、意識するしなにかかわらず、必然的に、ものを考える姿勢が変わってくるのは当然のことです。
 でもそれはそれでいいんだと思います。セミプロであってもいいんです。地域文化活動を持続していること自体、そうそう出来ることではない立派なことなんですから。だから皆家族的で、すごくいい人ばかりだったんです。
 私はこの頃、レッスンや芝居の稽古の都合で、夜のアルバイトをやめ、日暮里から出ていた京成電鉄に乗り、京成関屋駅で降り、そこから程近い隅田川の川縁にあった岡田商事というところへ出かけ、朝八時から夕方の四時まで働き日給四百円、自分の都合のいいときだけ働けるという、溶鉱炉に入れるためにプレスして固めたくず鉄のブロックを、一日中舟や貨車に積み込む荷担ぎ労働や、一週間に二、三回は空手道場の師範代などをして糊口をつなぎながら、絶対に芝居だけで生きるんだなんて、初志貫徹だとか、初一念などと勝手なお題目を唱え、先も見えない夢を薮睨みしてしがみついていたんですから、面倒を見なければいけない独りぼっちの母親や、弟たちにも逆に迷惑をかける結果になってしまって。
 自分の力で、反身になって踏ん張ってはみたものの、所詮は才能のない非力な人間です。このままではどっちつかずの半端者になってしまうと判断。太陽座を去ることにしたんです。
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by masashi-ishibashi | 2008-05-17 18:15

負けるわけにゃいきまっせんばい! 25

 <訛り(アクセント)との大格闘>


 なんとものっけから蹴躓き、呻吟のた打ち回って苦しんだのが言葉のアクセント、いわゆる訛りですよ。正しいアクセントで標準語を喋るということは、俳優としての基本的な最低条件でして、だから言葉が訛るということは、スタートラインから致命的なハンディキャップを背負い込んだわけです。なんせ台湾で十二年間、九州で六年間の生活をしてきたものですから、植民地訛りと九州訛りが仲良く手をつなぎ、果てはこんがらがっちゃってるんですからそりゃあ一筋縄じゃいきません。それはもう万人をして感嘆させるに十分な、インターナショナルな訛りなんですから。


     雨ニモマケズ

            ― 宮沢賢治詩集より ―

    雨ニモマケズ
    風ニモマケズ
    雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
    丈夫ナカラダヲモチ
    欲ハナク決シテ瞋ラズ
    イツモシズカニワラッテヰル
    一日ニ玄米四合ト
    味噌ト少シノ野菜ヲタベ
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・
    ホメラレモセズ
    クニモサレズ
    サウイフモノニ
    ワタシハナリタイ

 「ダメ!ダメ! ダメッ! 何回言ったら分かるのッ!」
 そんなこと言ったって、こっちだって雨にも負けず、風にも負けず汗だくになって頑張ってるんです。玄米四合どころか、味噌だって、野菜だって、ろくに食えない生活でやってるんだから!
 そうそう欲はあってもいいが、決して怒っちゃダメ! いつも静かに笑っている。 ねッ。そういうものに私はなりたい!


     河  童

         ― 北原白秋詩集より ―

    麗らかな麗らかな、
    何ともかともいへぬ麗らかな、
    実に実に麗らかな、
    瑠璃晴天の日のくれに、
    河童がぽつんと立った、との。
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・

 「あーあ、ちっとも麗らかじゃねぇよ! 曇り空の下で、河童が雨合羽をかぶって突っ立ってるみたいじゃないか!」
「くそったれ! 俺だって腹立ててるんだ!」

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・
    頭のお皿も青白く、
    真実、れいろう、素っ裸、
    こゑも立てねば音もせず。

 そう、こっちはお皿? じゃない――  顔も青白くなって、恥も外聞もかなぐり捨てて、真実、れいろう、素っ裸になってやってるんだから! それをあのアクセントは違う、このアクセントはおかしいのって、ひと言喋る度に、皆でよってたかって怒鳴られたんじゃ、頭の中が混乱しちゃって、それこそ〃こゑも立てねば音もせず〃になっちゃうよ。本当にこれじゃデルトマケ(出たとたんに何時もつんのめって、負けてしまう)じゃねぇか!
 こっちはろくなものも食べずに、稽古場まで、やっとたどり着いてやってるんですからね。まったくの話、宮沢賢治さんじゃありませんが、雪にも夏の暑さにも負けぬ丈夫な体と、精神力を持ってなかったら、それこそ首でも縊りたくなりますよ。
 そんな状態だものですから、もう完全にアクセントノイローゼ。これを何とか克服して直さなければいけない。思ってはいるんですが、人から指摘されると、闇雲に腹が立つんですねぇ。裏返してみれば、ようするに、自分の情けない悔しさに腹を立ててるだけのことなんです。
 寝ても覚めてもアクセント辞典と首っ引き、夜、布団をかぶって目をつぶっても、頭の中に言葉が氾濫して、アクセントのお化けが、大きくのしかかって来るような幻想を抱くといった次第で、最悪。
 いくらアクセント辞典を引いて、セリフの横に、アクセントの高低記号をつけておいても、感情が乗ってくればくるほど、意識すればするほどその努力とは裏腹に、それはそれはお見事というほどに訛るんですから、手のつけようがありません。
 そうですよね、言葉は生き物、アクセントというのは、その地方の風土や生活習慣の中から、自然発生的に生まれてくる生活感情、その感情表出から発生する、喋り言葉のイントネーションが、アクセントを形成するわけですから。だから記号どうりに喋っただけでは、その人間の、生の言葉ではなくなってしまうんです。
 そうだ、これは語学と同じで、生活の中から体得するのが一番と気がつき、辞書と生活環境の両面作戦。恋人を作るなら東京育ちの人、女房にするなら東京育ち、友達を作るなら東京育ち、もう3Tトライアングル。訛りのある地方の奴とは付き合わない! なーんて言うのは大嘘です。私の女房は、たまたま東京生まれの東京育ちだっただけのこと。だいたい昨今の東京なんていうのは、植民地のような寄り集まりですから。
 しかし、この意思を伝達するための、単なる音声でしかない言葉で、これほど苦労するなど、九州に居たとき、つまり俳優を志すまでは思ってもみませんでした。でも皆さんいい人ばかりで、いろんなことを教えいただきました。
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by masashi-ishibashi | 2008-05-16 17:20

負けるわけにゃいきまっせんばい! 24

  劇団 太陽座


 <セミプロの新劇団>

 私が通った大学は芸術学部という特殊性もあってか、変わった人間が多かったですね。あまり周囲にとらわれずわりと自由に生きていたようです。だから自分が好きというか、興味のある講義は夢中になって受講していましたが、あまり興味のない講義にはわりといい加減で、うまいこと受講票にハンコだけ押してもらって、「我が魂は、いずこの空を飛びおらむ、何か良いことないかしら……」 てなもので、他のことにせっせと精を出してたものです。もちろん、皆が皆じゃありませんよ。学校教育の建前からすれば決して良いことではありませんからね。
 だからこの頃は、学校とは別に、学業の途中から現場活動に入ってしまって、まともに卒業しなかった者が結構います。私なども自慢じゃないがその中の一人ですから、一般常識的な考え方からすれば、あまり大きなことは言えませんけど。
 ま、特殊な学部ではありますし、単位を取得して、学士号といいますか卒業証書をもらうのが目的じゃなくて、この場で何を学び何になるかが目的ですから。第一、学究になろうなんてこれっぽっちも思ってやしません。これはちょっと負け惜しみかな。
 過日、演劇学科の主任教授(時代の移り変わりは速いもので、私よりずっと年下の後輩だった人が、今やすでに主任教授ですから)と研究室で話していましたら、先輩たちの頃は、変わってるというか面白い人が沢山いたけど、最近はあまり見かけませんねって言ってましたが(ま、お世辞も大分あるでしょうけど)、入学試験の合格基準が随分違ってきたのでしょう。
 それはそれとして、私も、昭和三十年(1955)も暮れる頃学友の紹介で、彼が参加していた太陽座という新劇の劇団に入れてもらったんです。
 この劇団の人たちは、みなさんそれぞれに職業を持ちながら、勤務外の時間で稽古をし、春と秋の二回、本公演を打つというシステムの、いわばセミプロの劇団でしたが、幹部の方々は、築地小劇場や舞台芸術学院、それに日本大学芸術学部演劇学科出身の方が多く。学生演劇を脱皮して初めて接する、皆さんの芝居創りの熱気に大変興奮をを覚え、授業料の払いと生活費にいよいよ行き詰まっていた私は、学校を半ば放り出して、どっと芝居にのめり込んでいくことになったのです。
 肉体訓練、発声法、声楽、バレーのレッスン、エチュード、詩の朗読etc。
 職人さんの修行と同じく、頭でっかちの理論より、体で覚える実践だということで、その当時、演劇人の間で盛んだった、スタニスラフスキーの著書「俳優修行」を範とする、スタニスラフスキーシステムとか、ラポポルトの「俳優の仕事」などを繙いて、喧々諤々大車輪。
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by masashi-ishibashi | 2008-05-15 13:53

負けるわけにゃいきまっせんばい! 23

 それからはたまにしかお宅にお伺いすることもなくなり、奥さんとは次第に手紙のやり取りだけになってしまって。家庭裁判所の調停員を勤められ、七十歳で定年退職、藍綬褒章を受章なさっていましたが、はからずも私が隣町の府中市に転居してきてから、五年目の昭和五十九年(1984)六月十日、鬱陶しい雨が降っている日でしたが、夜、突然の電話で、ご子息の弘道さんから奥さんの訃報を知らされ、慌ててお通夜に駆けつけるということになったんです。七十二歳だったそうで、よく私が出演している映画やテレビをご覧になっては、「よかったね、よかったね」と、私が一人前の俳優として仕事していることを、とても喜んで下さってたそうです。膵臓がんが頭部にまで転移していたとのことですが、死に顔を見ると、何年かお会いしない間にちっちゃなおばあちゃんになってしまって。さまざまな煩悩と闘い続けてきた人間の終焉なんて、あっけないものです。たった先ほどまでこの世にあった姿も、ただの物体となり、そして彼岸の彼方に消滅し、二度と会うことの出来ないもう帰ってこない人なんだなあと思うと、何か胸の辺りがきゅっと締め付けられるようで、言い知れない寂しさに襲われ、じっと顔を見つめたまましばらく声が出ませんでした。
 初めて先生にお会いしたのは十八歳の少年の時でしたが、私もいつの間にかこのときすでに五十一歳。
 皆に心配ばかりかけてきた私が、これらの方々にせめてもの孝行をしたと、自分勝手にこじつければ、せめて曲がりなりにも、あいつは俳優だよって、認められるようになったことでしょうか。
 因果な職業で、翌日、早くから京都で撮影があるため、告別式に出席することも出来ず、途中でお別れしましたが、外は叩きつけるようなひどい雨に変わり、車のハンドルを握ったものの、ハイスピードで左右に動くワイパーは何の役にも立たず、フロントグラスを滝のように流れる雨は視界を遮り、ヘッドライトの先もよく見えないほどで、何か急に虚しいような鬱な気持ちになり、車を走らせながら思ったものです、 生きてるって何だろう――。
  人生って何だろうって――。
 でも負けてはいけないんです。マイナス思考はご法度なんです。
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by masashi-ishibashi | 2008-05-14 18:08



俳優石橋雅史ぶらぶら日記
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