石橋雅史の万歩計

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負けるわけにゃいきまっせんばい! 5

 また、少し違った創り方があります。これは複雑な精神構造を持たせた時ですが、翳のある悪役(敵役)を創造するときは、その人物に、肉体的にでも社会的にでもいいですから、何か負い目というかハンディキャップをもたせるのです。
 人間生まれたときはみんな無垢で同じなのに、物心がついたとたんに、肉体的な条件とか社会的な境遇とかで差別が始まり、それを意識することになります。その子たちは何とか懸命に生きようとするのですが、いつも体制側からはじき出されてしまい、ほとほと疲れきったその人間はだんだん社会不信に陥ってしまう。ここにニヒリズムが生まれるのです。そしてアウトローへと走ってしまう。だからこの人間の生き様というか行為自体、心情的には共鳴できますが社会倫理からすれば肯定するわけにはいかない。終幕は虫けらのように抹殺されるという図式ができあがります。
 これだと現代のように不良性感度の強い世の中では、スポットライトの当て方によっては主役になってしまいますが、「悪役の美学」とでも言いますか、いずれにしても悪役の創り方は、この二つの基本的な考え方の上に立って、魅力的な役創りのバリエーションは無限に広がるのです。こうなってくると普段観客の皆さんに、憎い奴とか嫌な奴とか言われている悪役創りも楽しくなってくるというものです。形からのみ入っていくワンパターンの役創りは、すぐに飽きられてしまいますが、内面を抉った人間のドラマは、本当に無限のバリエーションがあるわけで、それこそ役者万歳というところでしょう。
 

 <悪役の死に様>

 悪役の生き様があれば死に様もあるわけですが、現世には三欲というのがあって、金欲、色欲、物欲、などと言い、とにかく人間の欲望には限りがありません。本能といわれる食欲、性欲からもっと欲張って名誉欲、権力欲、征服欲などなど、これら欲望の塊が個人レベルでも、社会レベルでも、世界レベルでも、醜い争いを人類始まって以来永永と繰り返しているわけで、「事実は小説よりも奇なり」といいますが、現実の世界では、本当にフィクションの世界よりもショッキングでドラマチックな出来事が、溢れかえっているのであります。
 お芝居は現実のシチュエーションを凝縮したものですが、死に方も少しばかりデフォルメしてみたり、カリカチュアライズしてみたいなあと思うのが俳優でしょう。もちろん、どの作品でもというわけではありません。作品によりけりです。
 「死の美学」じゃありませんが、人間、死に臨んで悟りきったように、平静に格好よく死ねる人なんて、そうざらにいるとは思えません。欲望が強ければ強いほど、煩悩が多ければ多いほど、生への執着は強いのではないでしょうか。「俺は今日までの人生で、やりたいことはまだ何もやっていない、万分の一もやっていない、なんて不幸なんだろう。このままじゃ死んでも死に切れない、死ぬのはいやだ! 死ぬのはいやだ!」って獣のように泣き叫びのた打ち回ったりして─。
 私なんかもさぞかしそんな醜態を晒すんじゃないかと、今からその恐怖に恐れ慄いておりますが、人間っぽいっていえば人間っぽいし、みっともないって言えばみっともない。人間の弱さですかね。何も分からないうちにころっと、楽にこの煩わしい現世からおさらばできたらと思いますが。いやいやそんな馬鹿なことを言っちゃいけない! 人間みんな、いつもその煩悩と闘って生きているんでして、それに打ち勝てるか打ち負かされるかで随分と様相が変わってきます。
 現代のように夥しい情報が溢れかえっている社会では、その過剰な表現に惑わされて完全に混乱し、ともすると自分を見失ってしまいそうです。いや見失いますよ。ごく普通の人間である限り、欲望には果てしがありません。それこそ欲望という名の電車に乗ってどこまでもどこまでもです。
 ところで悪役の死に様ですが、その限りない欲望が犯罪を犯すとすれば、その人物が起こした行動の起爆剤となる、内面的な要因(欲望)を、その人物の終焉(死)に際して、画面の中でそれを形にして表現するのです。
 単純稚拙な定番で申し訳ありませんが、たとえばお金お金で生きてきた守銭奴みたいな人間であれば、今にも息絶えんとして、瞳孔は開き目は虚ろになりながらも、お金の在り処まで必死になって這いずっていき、震える手で懸命にお金を掴もうとしながら、寸前で果たせずに息絶えるとか、またはお金を握りしめて息絶えるなどですね。現世でさんざん悪いことをして、どれほど巨額のお金を手に入れたとしても、棺桶の中まで持っていくのはいかがなものかと思いますが、最近のご時世は戒名の格も金次第。どんなに悪いことをしている人間でも、多額のお金さえ積めば、○○院××居士なんて位の高い法号、つまり戒名がつけてもらえるんですからねぇ。しかしあのお金はいったい何処へ行っちゃうのかな? とにかく仏事にはいろいろと値段表があるので驚きます。私のような貧乏人は迂闊に死んじまったら、戒名どころか葬式も出してもらえません。いやいや私は俗名で結構ですし、密葬で十分ですから。灰はそこらの川かなんかに撒いてもらえれば。ま、私事はともかくとして、地獄の沙汰も金次第といいますから、悪銭を溜め込んだ悪太郎は、地獄へ行って鬼たちに袖の下でも使いますか。
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by masashi-ishibashi | 2008-04-14 18:26

負けるわけにゃいきまっせんばい! 4    

 それに忘れてならないのは、立ち回りはそれだけが単独に独立するものではなく、ドラマの延長線上にあるということです。そこに顔で斬って顔で斬られろといわれる所以があるのです。顔というのはその人の心理を表現している表情のことです。また本当に斬ったり斬られたりするのじゃないのですから、如何に、それらしく見せるかということが大切なことで、フィクションであるドラマの中の人物を創造することが仕事の、俳優でもない方に、いくら武術に秀でているからといっても、それを注文するほうが無理というものです。


 <悪役の創造と具象化>

 さて、話はちょっとごちゃごちゃしましたが、悪役を演じるのに、本物の悪人を連れてきてもドラマの中で成立しないことは分かったわけですが、それじゃどう創ればいいのかということです。
 それはその俳優が常日頃から、出来る限りデリカシーを持って生きるように心がけていることでしょうか。悪役も俳優が演じるのです。人間みんなそうでなければいけないと思いますが、俳優であるからには、人間としての心の豊かさを失ってはなりません。そしてポエジーを持つことでしょう。口で言うのは簡単なことですが、これが一番難しい。私などはまったく自慢できるような聖人君子ではないし、それこそどろどろした煩悩だらけの俗人ですから。
 それはそれとして、相手の気持ちを細かく汲み取ってやれる繊細な心、こうしたらこの人は傷つくだろうとか、ああしたらあの人は悲しむだろう、痛いだろう、苦しむだろうと、普段は人の気持ちを思いやって決してやらないことを、逆に行為として相手役にぶっつけるのです。そうすれば、観ている人たちはその人物に対して、嫌なやつだなあ悪いやつだなあと思うでしょう。つまりひっくり返してみれば、俳優に優しさがなければ本当の悪役は演じられないということですかね。
 ですから相手の気持ちを汲んであげられない、本当の悪人には悪役は演じられないということになります。肩を怒らせてみたり、唇を曲げてみたり、眉根に皺を寄せてみたりと、形だけでは本当の悪役は演じられません。要するに現実の中では本物の悪人にはかないませんが、フィクションの中ではそれとはまったく逆でして、普段の実生活で、あの人はいい人だねって言われるようでなければだめです。
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by masashi-ishibashi | 2008-04-13 18:33

負けるわけにゃいきまっせんばい! 3

 現実のものをそのままドラマに持ちこんできたら、リアルに見えるかといえば、それは少しばかり見当違いのようです。世界中からリアルタイムで飛び込んでくる、あらゆる実況中継などはそれ自体ドラマチックなものが多いですから、それでいいのですが、フィクションであるドラマでは、こんなことがあります。
 昭和四十九年(1974)のゴールデンウイークに公開した、東映の武術アクション映画「殺人拳 ・ 2」を製作するにあたり、本モノの武芸者に演じてもらい、迫力を出そうという映画会社の企画で、「腕に自信のある者全員集合!」と全国から、国籍、性別、年令を問わず腕自慢を募ったことがあります。いろいろと多岐にわたる武芸を身につけた、武術家の方たちがざっと千人ほど応募され、第一次の書類審査、第二次の面接審査と選考して、実技ではそれぞれが、ヌンチャク、杖(じょう)、棒、鎖鎌、トイファー、サイ、三節棍などの妙技を披露してくださいました。審査員は、東映京都のプロデューサー松平乗道さん、監督の小沢茂弘さんたち東映の関係者。主演俳優の千葉真一さんと私も立会い、厳選の上その中から、琉球古武道六段・剛柔流空手七段のKさん、沖縄松林流空手三段で中国人のHさん、古武道三段・日本天道師範代のKさん、レバノン空手選手権保持者のJさんたち、十人ばかりの方に出演していただいたのですが、結果としてはあまりほめられたできばえではありませんでした。
 実際に近くから生で見ていれば、気迫やスピードなど目を見張る凄みがありますけど、映画としてスクリーンに映ったら動きが細かく速すぎて何をやったのかさっぱりわからない。そのために折角の迫力が伝わってこない。しかしそれを非難する方が本当はおかしいんです。そうなるのは当たり前のことで、本物の武術家に対して失礼というものです。武術とは極端に無駄を省くものなんですから、そのまま演武していただいたのでは映画にならないのです。
 また殺人犯の役を演じるのに、本物の殺人鬼を連れてきたらドラマが成立するかといえば、これもそうじゃないわけで、現実と虚構の世界はまったく違うのであります。
 フィクションであるドラマではすべてに芝居心がなければ駄目であり、ドラマの中でのセリフや動きは常に現実より凝縮されて、観客に分かりやすく整理され、かつ洗練されていなければなりません。そして立ち回り(アクション)は、現実だったら無駄といわれる間とか動きを意図的に作って、それを人間の心理表現として、絵になるように組み立ててケレンを持たせなければ、観客を堪能させる迫力のある見せ場は創れないのであります。もちろんその人に音楽的なリズム感も要求されます。
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by masashi-ishibashi | 2008-04-12 19:00

負けるわけにゃいきまっせんばい! 2

 ともあれ、気がついてみればいつの間にか、俳優生活も五十年を越えたんです。 
 昭和二十七年(1952) 日本大学芸術学部演劇学科に首を突っ込み、昭和三十二年(1957) 新劇の劇団文化座に入って約八年間の演劇活動。ある事情でそこを退団し芸能活動を続けるうちに、自分の意思とは関係なく、敵役人生を歩き始めていました。
 これまでに何本の舞台や映画、テレビに出演したでしょうか。ま、それは大変な数になるでしょう。もちろん数えたこともありませんが、作品の良し悪しはともかくとして、どの役にも愛着があります。それはみんな私の分身みたいなものだからです。強いて印象に残るものといえば、それは昭和四十九年(1974) 二月二日封切り、東映製作のアクション映画「激突!殺人拳」でしょうか。それはこの映画の登場人物「志堅原楯城」という役を演じたことによって、はじめて、ああ、あんな俳優もいたんだと不特定多数のみなさんに認知していただき、この複雑怪奇で大変な世界を生き残って、現在の私があるきっかけになった作品だからです。これを契機に、東映は私を敵役としてイメージアップしていったようですね。
 歳月の流れは、本当に速いものです。俳優としてこの先、体力、記憶力、想像力の続く限り、「生涯現役」の気概を新たに、踏ん張れるだけ踏ん張るぞと、ここらで一度自分自身を再確認する意味で、今まで出会った人とのふれ合いや、自分の生き様などを振り返ってみるのもいいのじゃないかなあと――。



     悪役、 その生き様死に様


 <悪役、(敵役)とはなんだろう?>

 ただの憎まれ役と言ってしまえば簡単ですが、答えは大変難しいですね。
 図式で言えば、主役の行動線に対する反対行動線であり、その相反するものがぶっつかり合い、その葛藤がドラマを盛り上げるのですが、じゃその人物(役)を形象化するにはどうしたらいいのでしょう。舞台も映画も現実ではない虚構の世界なのだから、当然その俳優が創造するイマージネイションの世界になってきます。ドラマ自体が虚構なのですから、それにリアリティーを持たせるためにはいろいろな操作が要求されます。舞台でのリアリティー、映画でのリアリティー。
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by masashi-ishibashi | 2008-04-10 14:08

負けるわけにゃいきまっせんばい!  1

                
               負けるわけにゃ
                     いきまっせんばい!
                      
                                    石橋 雅史


                                 
 はじめに

「袖振れ合うも他生の縁」「躓く石も縁の端」。また外国では「Even a chance acquaintance is part of ones destiny](偶然に知り合うのも運命の一部である)というのだそうです。
 のっけから言い古された諺の同類語並べ立てて、まったく陳腐だなあと軽蔑されそうですが、どうしてどうしてこの七五調の諺なかなか含蓄があります。この地球上に今や約六十六億、日本だけでも一億三千万人の人間がいると言われていますけど、私たち一回きりの人生の中で、巡り会える人といったらほんのわずかなものですもんね。ですから人と人との出会いなんて、仏教で言う「他生の縁」じゃありませんが、なにか偶然じゃなくて前世からの因縁めいたものがあるような氣がするんですよ。
 その巡り会えた本当に僅かな人とのコミュニケーションの中に、無限の可能性を発掘することが出来るわけですから。
 誰も生んでくれなんて頼みもしないのに、両親が勝手に私を作ってくれました。いやいやごねてるわけじゃありませんよ。
 同郷の作家ということだけなのに、偶然に知り合った方が書いてくださった紹介状を持って押しかけ、面倒を見ていただいた。
 東映の殺陣師でもあり、また俳優でもある人物とたまたま共演したのがきっかけで、後年、思いがけなく東映製作の映画に出演することになった。
 人生いつもそんなことばかり。運がよかった悪かったなどということもよく耳にしますが、人の一生なんて、科学や計算では割り切れない、予知できないことだらけ。
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by masashi-ishibashi | 2008-04-09 16:57

負けるわけにゃいきまっせんばい!

 今日から少し趣向を変えて書いてみましょう。これは丁度私が還暦になったときに、生まれた干支に還るという意味で一度人生を振り返ってみようと思って書いたもので、数年前に出版を考えたことがあるのですが、企画出版ではなくって共同出版ではどうかということだったのでお断りしたものです。しかし、七十五歳になった今、考えてみれば、何も本にしなくたって多くの人たちとコミュニケーションをとることは出来るじゃないかと、急に思い立ったことなのです。
  題名は 「負けるわけにゃいきまっせんばい!」 にしましょう。私は九州福岡の出身ですが、「負け犬になるわけにはいかないぜ! なってたまるか!」といったような意味です。
 本文の内容は、
 自分のこれまでの生き様を、再確認する意味でも、ここらで一度、過去を振り返ってみるのもいいのじゃないかなあと─。
 また、これから演劇や映画、テレビなどの俳優を志している人、武道に興味を持っている人、広くはこの複雑怪奇で大変な現代社会と闘っておられる多くの方々に読んでいただけたらなあと─。
 人生の悲喜こもごもを、私が歩んできた、生い立ちから、お芝居、映画、テレビ、武道、今まで出会った人たちとのふれ合いなどを通して、その時その時の思いを、硬軟織り交ぜながらエッセイ風に書き綴ったものです。
 人生いろいろなことがあるけど、まんざら捨てたものじゃない。
 これは、夢と期待を持って、明日を闘うための人生応援歌のような、自分史風的エッセイです。
 随分前に書いたものとて表現に時間的なずれや分かりにくいところもありますので、出来るだけ訂正しながら書いていきます。といったわけでちょっと長くなりますがご辛抱を。これが終わりましたら、また「石橋 雅史の万歩計 ぶらぶら日記」を続けさせていただきます。
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by masashi-ishibashi | 2008-04-08 19:27

腰痛

 こんなことで弱音を吐きたくはないのだが、ここひと月ばかり凄く腰が痛い。それが朝床から起きるときなのだ。起きてしばらく動いているとさほどでもなくなるのだけど、とにかくふとんから抜け出して起き上がろうとした瞬間に、ズキーンと激痛が頭のてっぺんまで突き抜けうーんと唸って両手をつき身体がかたまってしまう。待てよもしかして椎間板ヘルニア? 若いときから負けてたまるかと、肉体的にも精神的にも頑張ってきたつもりのこの俺が…… こんなことでへたばってたまるかと、近くにある整形外科専門の病院へ駆け込んだ次第。ことの顛末をお医者さんに話しますと、あそう、じゃ立って床に手をつけるように身体を前に曲げてごらん、後ろに反ってごらん、うーんずいぶんやわらかいんだね。当たり前ですよまだ現役で身体をうごかしてるんだい。いやいやそんなえらそうに傲慢な態度をとってはいけない。こっちは患者で助けを求めにきてるんだから。今度はベッドの端に腰掛けて足をぶらぶらさせ、ゴムの小さなハンマーのようなもので、膝頭の少し下辺りをコツン、ピックン思わず先生を蹴飛ばしちゃった。わざとやったわけではありませんよ、足が勝手に動いたのですから。次は足の土踏まずの辺りをさわって、うーん左足の動脈の拍動が少しばかり弱いなあ、よし腰のレントゲンを正面と側面二枚撮って。 今しがた撮ったばかりのレントゲン写真の映像を見ながら先生曰く、若いときどんなスポーツをやっていました? はい、中学、高校時代は柔道部、大学時代から現在まで空手道です。またアルバイトで石切り場や荷役の重労働もやっていました。ははあなるほどねぇ、見てごらん、あなたが心配するヘルニアのような厄介なものはないが、七十五年間酷使した腰椎はこんな風にがたがたになっています。椎間板は紙のように薄くなっているし、腰椎はずれて変形している。先生、痛み止めとか湿布薬はないんですか? よほど我慢ができないというのなら別ですが、痛み止めを余り飲むのはよくないし、湿布薬は捻挫などで腫れている時期なら使いますがあまりねぇ、牽引という方法もありますが、これもまたすぐ元に戻ります、それよりも毎日二回ぐらいお風呂に入ってよく温まったらどうでしょう。冗談じゃありませんよ、いくらなんでもそれほど暇人じゃないしそんなことしてたらふやけちゃいますよまったく。  そうか七十五年か…… いつの間にか大したことも出来ないうちに随分遠くまで来たもんだ─。 少し来し方でも振り返ってみるか。
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by masashi-ishibashi | 2008-04-07 19:20

桜吹雪

 今日は本当に暖かい一日でしたね。暇な老人としては若いものに負けてなるものかと、ありもしない髪の毛を逆立てて時間さえあれば、老いの一徹岩をも徹すの勢いで足腰を鍛えるために、多摩川の土手を歩いていますが、土手沿いに咲き誇るソメイヨシノの並木は樹齢も結構なものとあって、巨大な花の笠を広げたように垂れ下がって地面を蓋い一陣の風に舞う花びらは、まさに辺りがかすむほどの桜吹雪、感無量、先日ある禅僧がおっしゃっていた「生涯現役 臨終定年」という言葉が思い出されて、人の一生もこうありたいものだなあとしばし考えさせられたものである。人間いくつまで生きてもいいけど萎れた花でいつまでもぶら下がっているのではいかにも情けない。しかし人の行く末運命は誰にも分からない。そうありたいと願うのみ。桜の下で一人の老人がぽつねんとすわりコンビニ弁当をひろげて、缶ビールを紙コップに注ぎ花を見つめては一呼吸してぐいと飲む。今日はウイークデイとあって花見のひとはほとんどいない。満開の桜を独り占めしているかのように老人はまたビールを飲む。そういう私も老人なのだ。この人は孤独なのかそれとも風流なのか、年を取って秒読みの段階に入ると時間が凝縮されて若いときにはあまり気づかずにやり過ごしたことに愕然とする。来し方行く末を見つめながら。
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by masashi-ishibashi | 2008-04-04 17:57



俳優石橋雅史ぶらぶら日記
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