石橋雅史の万歩計

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負けるわけにゃいきまっせんばい! 15

 これは蛇足ですけど、私、修学旅行って一度も行ったことがないんです。みなさん修学旅行と言えば、ほとんどの方がそれぞれに何らかの想い出をお持ちでしょう? 私は小学校は戦時中だったし、中学校は引き揚げてきてすぐの貧乏暮らし、高等学校は父親が死んで、どうやって生きていったらよいかという時でしたから――。
 しかしまあ、それほどみじめだとも思いませんでしたけどね。友人たちが新しい靴などを買い揃えたりして、嬉々として出かけて行く姿を見れば、少しは淋しい思いというか、羨ましいなあとは思いましたが、我が家はもう、そんな甘ったれたことを言っている状況ではなかったのです。
 高等学校をなんとか卒業しまして、何か仕事をしなきゃいかんと思ってはいましたが、戦後の田舎のことですからおいそれと就職先などなかなかあろうはずがありません。近くの製材所へ行き、みかん箱を一個作っていくらという味気ない仕事を余儀なくやっていたんですが、大学に進学した友達の噂を聞くたびに、なんだか自分だけが取り残されたような気がしましてね――。
 

 <東京へ>

 たまたまそんな時、東京で絵描きを生業としていた伯父(母の兄で日展の会員だった人ですが、もちろん今は故人です)から手紙がきました。東京へ出て来いというんです。田舎にいても仕事は無いだろうし、今なら東京の新橋にあるR貿易商社という会社でアルバイトを募集している、そこに紹介するから働きながら夜学にでも通えと言う文面だったんです。そりゃ飛びつきましたね。目の前がパッと明るく開けたような。
 だけどこれ――、上京するにしても、現実問題として汽車賃(この頃は博多から東京まで約二十四時間かかって走る、石炭が燃料の蒸気機関車SLでした。東京に着く頃は、目の周りから耳の中まで真っ黒)も無ければ当座の生活費も無いわけでしてね。いやあ途方にくれました。
 しかしよくしたものですね、近所の精米所で働いていた男が「石橋さん、おれが手伝うけん闇米ばやらんね」って言うんです。一も二もありませんすぐに乗りましたよ。農家から良い籾米(これはこの男のような専門家でなければ分かりません)を出来るだけ安く買い入れて精米し、今度はできるだけ高く売りさばいてその鞘稼ぎをするわけです。
 料亭などに持ち込んで買って貰うんですが、最初のうちは厨房の勝手口に入って売り買いの交渉をするのが恥ずかしくってですね――。しかしこれは驚くほどに儲かりました。
 こんなことも、ちょっときざな言い方ですが、ひとつの光明を求めて、目的を達成するためにはなんとしてもこのトンネルをくぐり抜けなければならないという、抜き差しならない目的意識が強かったから出来たんでしょう。
 しかし運命の女神はなかなかそう簡単には微笑んでくれません。
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by masashi-ishibashi | 2008-04-29 19:14

負けるわけにゃいきまっせんばい! 14

 もっともどんな境遇にあっても、清廉な生き方をなさる人もいらっしゃるでしょうけど。
 父も公職を追放された元職業軍人ですからろくな仕事も無く、漬物会社の臨時雇いに勤めたり、落花生を仕入れてきて駄菓子を作り駄菓子屋に卸して歩いたり、豚を飼って繁殖させてみたりと、一所懸命にいろいろな仕事を探して働き私たちを養ってくれていましたが、私が高校三年生になってすぐの頃、医者の誤診で手遅れになった癌が体中に転移してしまい、入院も手術も出来ず枯れ木のように痩せ細り、朽ちるようにして亡くなってしまいました。昭和二十六(1951)五月二十六日早朝―。 五十一歳の若さで。
 ほんとうに心身ともぼろぼろに疲れ切っていたことでしょう。子供の頃、動物園に連れて行ってくれて肩車をしてくれた父、川で魚の獲り方を教えてくれながら遊んでくれた父、模型飛行機の作り方を教えてくれながら一緒になってそれを飛ばし笑い興じていた父。なにかと折にふれてそんなことが想いだされ、引き揚げてきて五年目、世相も一番大変な時期に家族のために苦労のしずめでと思うと、胸が痛みます。死亡診断書に書かれた死因は肺臓癌となっていました。当時その前の医者は肺結核と誤診したのです。
 私も中学、高校と新聞配達をしたり、休みの日は石切り場や漬物会社などでアルバイトをして家に給金を入れていましたが、その頃私などが稼げるお金なんて大した足しにもならない微々たるものです。
 ですから父が亡くなったとたんに五百円の月謝が払えなくなってしまいまして、母からは高校も諦めてくれって言われるし。そりゃそうですよね、食べていくことにすら困っていたのですから。それでも母方の叔父が月謝を払ってくれて何とか高校は卒業したんです―。
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by masashi-ishibashi | 2008-04-28 19:07

負けるわけにゃいきまっせんばい! 13

 <引揚者>

 各地から集結させられた大勢の日本人は、高雄港にある汚い大きな倉庫で何日か待機させられ、災害時に集まった被災者の集団みたい。そのうちようやく乗船許可がおりて昭和二十一年(1946)三月、何とか家族五人欠けることなく揃って九州に引き揚げてきました。「月影」という駆逐艦の蚕棚のようなところに詰め込まれまして、内台航路(台湾が日本の植民地だったころ、日本本国のことを内地といっていました)を三日三晩「金波銀波の波越えて」なんていう、バナナの叩き売りみたいに威勢のいいものではありません。ピッチングにローリング、胃袋がひっくりかえって、口から飛び出しそうになるくらいにゲェーゲェーと吐きまして、もう半死半生。
 着いたところが鹿児島港。まあ桜島の噴煙が凄い日で街中に火山灰が積もって一面灰色一色。こりゃあなんだってなものですよ。なんせこんな情景は見たことが無いんですから。それはみんなの虚無的な気持ちを象徴しているようで印象的でした。
 上陸した途端に検疫です。これまた火山灰のような灰白色の殺虫剤、現在は、毒性が強いため人体に有害であるとして使用されていないDDTなるものを、頭のてっぺんから足のつま先までぶうぶうと吹きかけられ、もうもうとしてまるで「粉屋のネズミ」、真っ白け。これじゃ本当に気勢があがりません。
 なんだかだと引き揚げ入国の手続きがありまして、今度は汽車にぎゅうぎゅう押し込まれ鹿児島本線を一路北上。やっと父の実家にたどり着いたのですが、さあこれからが大変。終戦直後の混乱期でほとんどの人があらゆる意味で逼迫しているところへ、それこそ一夜にして丸裸になった親子五人が、それはそれは汚い格好で突然帰って来たのですから。実家といったって八畳、六畳、四畳半、三畳、四畳ほどの板の間に五右衛門風呂のちょっとした風呂場に台所といった小さな家でして。そこに祖父母夫婦とその祖父母夫婦がある事情で引き取った孫、つまり私たちの従兄、それに未亡人になってやはりこの実家に帰ってきていた父の妹とその娘が二人。この娘たちももちろん従姉妹になるわけですが、なんと私たちの家族と合わせて十一人の老若男女が、一つ屋根の下で生活を始めたのですからそれはもう大変ですよ。一人だけ父方と血のつなっがっていない私の母などは、当時の嫁という立場もあったし並大抵のことではなかったようです。その母も七十歳まで生きて昭和五十一年(1976)の一月に亡くなりましたけど。
 「貧すれば鈍する」じゃありませんが、血のつながりはあっても心のすれ違いが多くなり、悪い面だけが膨らんでしまって間に入った父は随分苦労していました。今でこそ親類同士うまくいっていますけど、お金もない、食料もない、仕事もないという生活は、精神まで貧困にしてしまって嫌ですね。
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by masashi-ishibashi | 2008-04-28 00:01

負けるわけにゃいきまっせんばい! 12

 輸送幹線がずたずたに寸断され、寮に取り残された私たちのところには食料が何もなくなってしまい、食べられるものは何でも口に入れました。蛙、ネズミ、カタツムリ、(あちらには大きなエスカルゴみたいな奴がいて、日が落ちて夜になると沢山這い出してくるんです)、蛇。学寮の炊事場になぜか塩が沢山残っていて、蛙やネズミそれに蛇などは皮を剥き内臓を取り去って、塩をぬり火にあぶって食べる。ネズミの肉は硬いです。カタツムリは殻をつぶし、肉のところだけ塩をまぶしてぬめりを取り塩茹でにして食べる。
 学校の授業はといえば普通の学科はほとんどなく、足にはゲートルを巻き戦闘帽をかぶっての軍事教練。私たち一年坊主は大したものじゃありませんでしたが、なぜか村田銃(明治十三年<1880>、陸軍少将村田経芳の発明した単発小銃、同十八年<1885>改造、同二十二年<1889>に村田連発銃を発明)の手入れの仕方(当時、日本の歩兵銃は、明治三十八年<1915>に制定された、三八式歩兵銃だったのですが)などです。ちょっとしたミスでもあろうものなら大変。両足を踏ん張って歯をかみ締めろッと、強烈な往復びんたの鉄拳制裁。
 昭和二十年(1945)四月から六月にかけての凄惨を極めた沖縄戦と、八月六日の広島、八月九日の長崎に投下された世界最初の原爆は、広島約二十万人。長崎約十五万人の死傷者を出し、その原爆による想像を絶する悲惨さは敗戦を決定的なものとし、こんな状況の中で終戦を迎えたのですが、どんな戦争であれ、お互いに大義名分を立てて正当化してみても、尊い人命が失われ、取り返しのつかない環境破壊を起こすことに変わりはありません。こんなことではいずれ人類自身の手で、この地球は破滅してしまうことになるでしょう。この異常な体験は、私という人間を形成する物差しに、大変大きな影響を与えました。
 この終戦を境にして私の生活は一転して変わります。
 もちろん学校は休校。終戦当初しばらくは、長く植民地統治下にあった反動でか、台湾人による日本人に対する集団暴行事件があったりして、不穏な時期が続いたんです。時間がたつにつれて、彼らはまた理解を示すようになりましたが―。 職を失った父は、これまで面倒をみていた台湾人の紹介で荷車を買い込み、自分の愛馬に引かせて、青果卸売市場に出向き青果運搬のにわか仕事。ここでも随分嫌がらせを受けましたが、知り合いの台湾人が体を張って父を庇い彼らを説得していました。そばで見ていると日本人の父を間にはさみ、台湾人同士の善意と憎しみを剥き出しにし声を荒げての大喧嘩です。当人たちも理性では抑えきれない、また何がなんだか整理のつかないまま、いっぺんに噴出してくる感情を、為政者側にいた人間を前にして吐き出していたのでしょう。
 家族で道路にゴザをひろげて、食器や衣類その他、あらゆる家財道具を並べ金銭に換えてのその日暮らし、そんな中で、半年ほどたった頃やっと引き揚げ命令が出て、高雄港に集結することになったのですが、帰国に際して、進駐してきた中華民国政府が許可したわずかな品も、港の検閲所で、めぼしいものはみんな中国兵に取り上げられ、残ったものはガラクタばかり。敗戦国の民はみじめなものです。
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by masashi-ishibashi | 2008-04-26 18:15

負けるわけにゃいきまっせんばい! 11

 戦局の方は日に日に悪化し、翌、昭和二十年(1945)私が国民学校六年生の後半から中学校に入学する時期には末期的な様相を呈して、三月の八日だったか十日だったかに第一回目の大空襲。この爆撃はたしか東京にB29爆撃機が飛来して、大々的な空爆を行った日とほぼ同じではなかったでしょうか。台湾のほうはB26爆撃機だということでしたが、記憶に少しばかりあいまいなところがあります。ちょうどお昼時で、これまで空襲警報が発令されても敵機は素通りして被害が無く、人々が油断していたこともあって、多くの家屋の倒壊焼失に伴う夥しい死傷者を出し、その日からは連日の猛空爆。それは現場を目の当たりにした者にしか分からない、筆舌に尽くせない凄惨な地獄絵でして、風向きによって街全体に何日も何日も死臭が漂い続けました。
 父は即座に陣地構築のため島の南端に飛び、母や弟たちも三月のうちには台中の山間にある、埔里という町に疎開してしまったものですから、勢いあれよあれよといううちに、私だけが台南第一中学校入学早々、学生寮に取り残されて、連日、爆弾、焼夷弾、機銃掃射の中をひたすら逃げ回っていました。ただただ怯え逃げ惑うだけの屈辱の日々ですよ。
 あの戦略は徹底していましたね。空襲の最中に防空壕の隙間から恐る恐る上空を見上げますと、対空砲火の届かない遥か上空を、太陽に反射してキラキラと光りながら、来襲したB26爆撃機の大編隊がゴマ粒を一面にばら撒いたように爆弾投下していきます。何秒かすると大爆発の連続音とともに震度5かと紛うばかりの大パニック。破壊が終わると次は焼夷弾を投下して焼き尽くす。あの時、防空壕の天蓋に土を盛っていた人たちはほとんどが生き埋めとなり、家屋や店舗の床下などに防空壕を作っていた人たちは、倒壊した建物で生き埋めとなったうえ、次におきた火災でみんな蒸し焼きになってしまったんです。それはむごいものです。次には艦載機のグラマンやロッキードP38などが飛来して、逃げ惑う人たちに機銃掃射を浴びせるといった、波状攻撃による完璧な壊滅作戦です。文章を読んだり耳で聞いたりしただけではなかなか実感できないでしょう。あの頃五百キロ爆弾とか、一トン爆弾などといわれるものを投下していたようですが、一トン爆弾なんていうのは着地爆発によって、それはそれはとてつもなく大きなクレーター様の地形を作り出し、それに、その時の爆風と飛散する爆弾の破片や土砂の物凄さ。加えて爆発が連続して起きますと、先ほども申しましたように震度5の地震どころじゃありません。それから、あれだけいっせいに火災が起きますと、そこら一帯に熱風が巨大な渦を巻いて消火どころの騒ぎではないのです。炎に包まれなくても熱風に巻き込まれただけで焼け死にます。戦時中の防火訓練でやっていたバケツリレーだの、モップのようなものの先に水をつけてパタパタなんてことは何の役にも立ちません。
 爆撃の振動で崩れた庭先の防空壕で、下半身が埋もれ脱出できずに苦しんでいる知人を、皆で引っ張り出そうと必死になっても、天蓋に使用した太い桟や板、それに盛り上げていた土が壕の中に崩れ落ち、曲がった体を圧迫してなんとしても抜けてこない。あたふたしているうちに火災を起こした家屋がなだれるように焼け落ちてくる、助けを求める知人を見捨てて一散に飛び散る。慙愧に絶えず、その時の光景がいつまでも夢に出てきてうなされる。
 この凄まじい空爆で、何人かの友人知人が犠牲なり彼岸の人となりましたが、今振り返ってみてもよくぞ生き残れたものだとつくづく思います。
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by masashi-ishibashi | 2008-04-25 18:05

負けるわけにゃいきまっせんばい! 10

 <太平洋戦争、そして敗戦へ>

 ついに昭和十六年(1941)十二月八日未明、日本は日中戦争も泥沼のまま太平洋戦争へと突入。私が尋常小学校三年生のときです。尋常小学校は国民学校と名称が変わり、父には召集令状が来て、翌年、昭和十七年(1942)早々、外地(南方)の前線に派遣され、非常時体制の中でいきなり母子家庭。父が出征する前の夜、母は泣いていました。子供は何も知らないようでいながらちゃんと知っています。その夜ふっと目を覚ましたんです。何か夢を見たようで、しかしそれは夢ではなく、薄暗い寝床の中からぼそぼそと、母の涙まじりに小さく聞こえてくる夫婦の会話だったのです。狸寝入りをしていた私は、そのうちにまたいつの間にか眠ってしまい、もうその時の会話がどんなものだったかは記憶にありませんが、この年齢になればその時の状況ぐらい想像がつきますよね。
 戦争は個人の意思とか思惑を完全に抹殺してしまう残酷なものです。そして人間を狂気にしてしまいます。今こう言っている間にも、世界のあちこちで性懲りも無くこの愚かな行為が繰り返されているわけですが、これでどれだけ多くの無辜の人たちが飢え、傷つき死んでいくことか。
 昭和十七年(1942)八月十五日(奇しくも三年後のちょうどこの日、終戦を迎えるのですが)九歳年下の弟、三男で末っ子の勝行が誕生。名前だけは勇ましく「勝って行く」という名前なんです。結局は負け戦だったわけですけどね。
 私はこの頃体調をくずして、肺結核一歩手前の肺門リンパ腺炎を患い、長期にわたって通院治療を行うことになり、母もずいぶん心細い思いをしていたのでしょう。
 私の病気もやっと治癒したころ。父が、出征から二年目の昭和十九年(1944)、台南の陸軍歩兵第二連隊に帰還。私たちは台南の台南駅に近い、寿町という所に移り住むことになります。閑静な住宅街といったところでしょうか。父の仕事の関係で、花蓮、台東、そしてまた花蓮へ、それから台北、台南と住まいが変わり、まるでヤドカリみたいですね。幼稚園は途中まで、国民学校も六年生の途中で台南の花園国民学校というところへ転校。幼いながらも転校生には悩みがあります。友達関係、中学受験と……。でも良いほうに考えれば、他の人よりもずっと多くの人たちと出会いの機会が持てたということです。
 それもそうですが久しぶりに会った父は、まだ四十代だというのにあまりのおじいさん顔に吃驚。戦地で歯槽膿漏に罹ったとかで歯がほとんど無いんです。ま、これは後に入れ歯で解決したようですけど。腕に残った帯状のやけどのような弾痕などを見ると、多くの戦死者や重傷者を出した悲惨な激戦地ではなかったにせよ、国内にいればこんな有様にはならなかっただろうにと、その時は戦場という特殊性を子供心に思ったものです。現在はそいうものがテレビというメディアを通し臨場感を伴い即座に飛び込んできますが、その頃は、ときどき映画館で見る景気のいい大本営発表のニュースくらいのものですから、自分がその状況に遭遇するまでは想像も出来なかったのです。
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by masashi-ishibashi | 2008-04-23 14:26

負けるわけにゃいきまっせんばい! 9

 「忘れちゃいやよ」の大ヒットで一躍人気が出た渡辺はま子さんは、「お色気歌手」のレッテルを貼られてしまうのですが、ここで彼女の名誉のためにひと言書き添えておきます。
 渡辺はま子さんが八十九歳(脳梗塞)で亡くなったとき(平成十一年<1999>十二月三十一日)、音楽評論家の伊藤 強さんが「渡辺はま子さんを悼む」という記事の中で、こいうことを書いておられます。
 「―前略―お色気歌手というレッテルを貼られるようになったけれど、これは多分、本意ではではなかっただろうし、彼女の本筋でもなかった。
 渡辺はま子の本領は、その後に歌った、戦前の「支那の夜」「蘇州夜曲」「夜来香」「桑港(サンフランシスコ)のチャイナ街(タウン)」などの、エキゾチシズムにあふれた作品群だろう。それは、その時代にあってのモダニズムと言ってもいい。―後略―」と。
 フィリピンの収容所で戦犯死刑囚が作詞作曲した「ああモンテンルパの夜は更けて」を昭和二十七年(1952)に発表したのが、最後のヒット曲だが、これを現地慰問で歌い、多くの戦犯釈放につながったことは有名な話です。
 また、NHK「紅白歌合戦」に八回出場。日本レコード大賞特別賞を二回受賞(1973・1982)。紫綬褒章(1973)、勲四等宝冠章(1981)を受賞。
 さて私事に戻ります。幼年期のエピソードは随分とあったようです。父の馴染みだった芸者さんの置屋で、当時、シェイ(姓)は丹下、名はシャジェン(左膳)と、あの豊前(現在、福岡県の一市)訛りの名文句で一世を風靡した、大河内傳次郎さん演じるところの映画「丹下左膳」。何を言っているのか分からないような、あの魅力ある(?)台詞回しを、衣裳を着けて刀を差して、白粉つけて紅つけて、お調子者まるだしで、格好つけてやってみせたとか。なあに置屋に預けられている間に、そこにいた芸者衆が、面白がって扮装させのっけたんですよ。それを家に帰って母上かくかく云々と報告に及んだものですから、(?)がばれちゃってもう大変。なんせ私はしょっちゅう父のだしに使われてたんですから、赤チョコベーですよ。
 しかしこれはB型の特性ですかね。父はO型ですよ。いやこんな話ばかりしていても切りがありませんね。小さい頃の輪郭を少しばかりと思いまして―。それでも両親の夫婦仲はいたって睦まじく、私も親たちの愛情を一身に受けて育ち、明るくて楽しい、いい家庭だったと思います。


 <少年期>

 昭和十三年(1938)、台北に転居、近くに淡水川という大きな川が流れる、川端町という、空気の澄んだ郊外の田園に住み、父は台北第二中学校の教練教官に配属されまして。その年、昭和十三年(1938)九月二十二日に五歳年下の弟、純一が誕生。可愛かったですね。なにせ約五年と十ヶ月もはなれた弟がぽろっと出てきたんですから。ほんと、ぽろっと。すっかり兄貴風を吹かしちゃって、弟が少し大きくなり、首もちゃんとすわって体もしっかりし始めた頃、どうしてもおんぶしてみたくって、母親に駄々をこね、おんぶさせてもらったまではよかったのですが、落っことしちゃいましてね。本当はあいつにそっくり返られちゃったんです。畳の上だったので、大事にならずによかったものの危機一髪でしたよ。それでひどく叱られしょぼんとしちゃって、兄貴風もまるで形無し。
 昭和十四年(1939)四月、台北市南門町にあった、南門尋常小学校に入学。その頃も私たちの生活は平和そのものでした。
 ある日、近くに借りていた農園(今はやりの家庭菜園みたいなものです)に、夕方、父を迎えに行く途中、蛇を見つけて大格闘(?)、得意満面になり、集まってきた見物人たちに顰蹙を買いまして、これまた何事かと人垣の間から覗き見た父は、おっちょこちょいの我が子がよほど恥ずかしかったと見えて、他人を装い「坊や、坊や、そんなことをしたら危ないから駄目だよ」なーんて、馬鹿によそよそしい態度。息子に「あっ、父ちゃん!」と駆け寄られたときの、万事休した、あのばつの悪そうな弱り果てた顔。家に帰った途端に、「この馬鹿者っ!」とものすごい雷。戦争ごっこにチャンバラ、木登り、トーチカ(小さな要塞みたいなもの)を作っての土合戦(お互いに土塊を投げつけ合う、ちょっと乱暴な遊び)。まあこれですから、たんこぶや擦り傷をつくって帰ってくるなんてぇのは毎度のこと。小さい頃の写真を見ますと、まず大抵は向こう脛かなんかに包帯を巻いてますからね。ある時は、動物園やら魚とりに連れて行ってもらったりと、子供の特権をフルに発揮しておりましたが、一方、世界の情勢はのっぴきならないところまで来ていたのです。
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by masashi-ishibashi | 2008-04-19 17:51

負けるわけにゃいきまっせんばい! 8

 でも、男の子って大体において魚とりや虫、それに動物が大好きじゃありませんか? 当時、動物好きの父が、猿を二匹、犬を二匹、それに兎、鶏、池には鯉や鮒、(昭和二十年(1945)太平洋戦争終戦の頃は馬まで二頭もいましたからね)などを飼っていまして、家に帰ってくればこれらの動物が格好の遊び仲間。キャンキャン、ギャアギャア、コケコッコウー。動物は可愛いものです。可愛さあまってからかったりいじめたり、最後は敵も怒って大喧嘩。猿なんか変に利口ですので、父が帰宅するとキャッキャキャッキャとご注進に及びますからね。おにぎりをもらい損なった悔しさに。生意気な。よくあるじゃありませんか、好きな女の子にちょっかいを出してわざとからかったりいじめたり。しまいにはとうとう泣かせてしまって。どうもこの頃から潜在的に素質があったようですなあ。
 しかし、そんな飼ってる動物が一匹でも死ぬというのは嫌なものですね。淋しいやら悲しいやら、なんとも可哀想でたまらないものです。もうこの世から消えてしまって存在しなくなってしまった身近なものの死という現象。あの切ない気持ちは例えようがありませんよね。今までのやんちゃはどこへやら。庭の片隅にお墓を作って花を挿し殊勝に涙ぐんだりして。
 女房に「あんたって本当に浪花節ね……」ってよく言われますが、どうもこの情に脆いんですなあ、映画やテレビ、舞台などを観ていても、なにかにお構いなくすぐに涙腺がゆるんじゃうんですから。
 例え動物であっても、身近なものの死というショッキングな現象に直面するということは、人間の持ついろんな情操を刺激して、それを強く揺さぶります。まして人の死は、いわんやなおさらのこと。しかしなんですね、昨今の世の中にはこのあらゆる情操(美的情操、知的情操、道徳的情操、宗教的情操など)をどこかに落っことしてきた御仁が随分いるようで、あまりにも信じられないような唖然とした事件が多すぎます。
 幼年期のお笑いの極め付きを父の日記に見ますと。私が五歳(この頃は数え年、つまり生まれた年も一歳に数えましたから、今で言う満四歳と何ヶ月)のとき。大日本帝国軍国主義が華やかだった時代で、昭和十二年(1937)七月七日に、盧溝橋事件を契機として日本と中国の間に起こった、日中戦争が勃発して間もない頃。当時、大ヒットしたにもかかわらず、「甘い歌い方が官能的」ということで、そのころの内務省(内務行政に関する最高中央の行政官署。昭和二十二年(1947)官僚勢力の中心として新憲法下に相応しくない理由で廃止)から発売禁止になっていた、渡辺はま子さん唄うところの「忘れちゃいやョ」という歌謡曲を、自宅近くの交番所(現在の交番、巡査派出所の旧称)でお巡りさん相手に、一曲得得として自慢(?)ののどをご披露に及んだというのですから。さあ慌てたのは父親です。職業軍人という立場もありますし、発売禁止処分になっているレコードを持っていたわけですから。父が慌てたり照れたりしていた様子が目に浮かぶような気がします。こっちはさっぱり意味も分からずに歌っているんですから、叱られてもまるで狐につままれたようなものです。知っちゃあいませんよ。
 ちなみにこの歌をご存じない方のため、ご参考までに歌詞の一部分を書いておきましょうか。


   月が鏡で  あったなら
   恋しあなたの  面影を
   夜毎うつして  見ようもの
   こんな気持ちで  いるわたし
   ねえ  忘れちゃいやよ  忘れないでね


 記憶がちょっとあやしいですが、こういった塩梅です。
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by masashi-ishibashi | 2008-04-18 15:04

負けるわけにゃいきまっせんばい! 7

    生い立ち


 <俳優を形成するもの>

 いきなり悪役の創造から走り出しましたが、普通、文筆業を生業とする作家の方なども、作品を創りだす段階において、まず自分の生き様のどの部分をどの角度からナイフで抉って、その切り口を見せるかというところから創作という作業が始まるわけですが、小説である以上、当然より効果的な表現手段としてのフィクションが構成されていくことになります。
 私は俳優ですが、俳優にも大変似ているところがあって、舞台に立ってもスクリーンに映っても、演じる人物は、その俳優の人生のストリップショーだといわれるくらいに、生き様が現れてきます。もちろん、お芝居もフィクションですが、自分が今まで見たもの(現実、芝居、映画、絵画、etc)、聞いたもの(人の話、音楽、etc)、読んだもの(小説、詩、ノンフィクション作品、etc)、いろいろと体験したことなどのように、自分の血肉となったものの中からしか、フィクションを構成するイマージネイションは生まれてこないのです。だからある意味で、演じるということは、自分の恥部まですべて公衆の前に晒していることになり、大変勇気がいることなのであります。しかしこの職業で生きている限り、逃れられないことですから開き直るしかありません。
 そこで自分が生きてきた足跡を、七十余年間じゅっくりととはいきませんが、タイムスリップして、触りだけでも駆け足で垣間見てみようかなあと―。 この年になって改めて振り返ってみるのもいいじゃありませんか。


 <幼年期>

 私の父母は九州福岡の産ですが、私が生まれたのは、台湾東海岸中央部にある花蓮という港町の、台湾花蓮港庁花蓮港新城通り九番戸というところです。現在は観光ルートにもなり、商業、交通の一中心で、東海岸唯一の良港だそうですが。職業軍人だった父と、平凡で小さな商家から嫁いできた母との間に、長男として昭和八年(1933)一月四日に出生。
 ここ花蓮より南方に位置するところに台東平野があります。日本領有時代、この地でサトウキビ栽培が開発されてから、花蓮に製糖工場が設けられたという位置関係のところです。サトウキビとは関係ありませんが、この台東にも生後の一時期、父の仕事の関係で移り住んでいたようですが、あまりにも小さい時だし、父母から興味のある特記すべきエピソードなども聞いていなかったものですから、セピア色になった古い写真に、兵隊さんに抱かれたものや、住んでいた官舎、その周りに立てられていた、背が高くて大きくはためく五月幟や、鯉幟を見るだけで、まったく記憶に残っていないのが残念です。
 ともかく、また花蓮に舞い戻り官舎住まい。官舎といっても大した代物ではありません。緯度からしても北回帰線に近い、典型的な亜熱帯地方の気候で、年間平均気温が二十度を下らないうえ、台湾は山が東海岸(太平洋側)に迫ってきてますから、夜など窓ガラスにヤモリがぺたぺた。ときにはムカデまで登場します。海岸が近いせいか? 朝、靴を履こうとして足をつっこんだら、奥に蟹が入っていてギャーッ。嘘みたいな本当の話。
 ここで幼稚園に入園。泣き虫できかん坊、痩せて真っ黒、とまあ墨汁の中に飛び込んだ蚊とんぼのようなもので、目ばかりギョロギョロして始末が悪い。たまに故郷の九州へ帰ると、親戚の連中が「まあ、マーちゃんな、ほんなこてゴボウんごたる(まあ、マーちゃんは本当に牛蒡みたい)」と表現したそうですから大体想像がつきます。それでも孫は可愛かったらしくて、祖父などはよく肩車をしてあちこち連れ歩きご満悦だったようです。
 ある日、幼稚園から我が家に連絡がありまして、「お宅の息子さん、今日は見えてませんけど、体の具合でも悪いんでしょうか?」と言ってきたんだそうです。母親は大慌て「いいえ、いつものようにちゃんと送り出しましたけど?」って。さあみんなも大騒ぎ。当時は人攫いにさらわれてサーカスに売られるよなんて、バカな脅し文句もあった時代ですから。いったい何処へ行っちゃったんだろうと、手分けして探し回ったところ、何のことは無い、自宅と幼稚園の途中にあった小川で、泥んこになって魚とりに孤軍奮闘していたといいます。幼時から名うての道草名人だったようで困り果てたものです。
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by masashi-ishibashi | 2008-04-17 18:48

負けるわけにゃいきまっせんばい! 6

 権力欲に憑かれた悪党は、権力の象徴である豪華な椅子からずり落ちて死ぬとか、抱きかかえるようにしがみつきカッと目を剥いて死ぬとか。しかしこの椅子も、現世では己の欲望を満足させてくれたかもしれませんが、あの世へ持って行ったらさぞかし邪魔でしょう。インテリアというわけにもいかず、いつも自分の背中にくくりつけて歩いてたりして。この無用の長物は結構へたばりますよ。黄泉の国ではなんの価値もないでしょうからね。
 また力と力で争う、闘争の虚しさなんてのもあります。宇宙規模からみれば人間なんて針の先で突っついたくらいのものです。ところが欲望のほうは宇宙規模で大きい。まさに無限大なのであります。これが個人レベルであれ世界レベルであれ、ともかくぶっつかりあって争いが起きます。そして全てとは言いませんが、本当の正義とかヒューマニズムなんて、どこにあるのかなあと思うことばかりです。いつも大義名分というデコレーションで粉飾し、正当化されているような気がしてなりません。
 理由はいろいろあるとして、個人のエゴイズムが衝突して争いとなり究極の行為として殺人という犯罪を生みます。殺人を犯したほうは取り返しのつかない結果に茫然自失となる。いやいや冷酷で冷めた奴もいるでしょう。
 死ぬほうは「何で?」という思いが、薄れゆく意識の中で瞬間、脳裏をよぎるでしょう。震える手を傷口に持っていく、そっと触ってみる、その手を顔の前に持ってくる、ベットリと着いている赤い血、いやもうカラーではなくてモノクロームになっているだろうか、鼻の先に持ってきて血のにおいを嗅いでみる、舐めてみる、その所作はもはや緩慢だが呼吸は浅く短く早い、いくら空気を吸っても酸素が無いみたいで苦しい。そうだ酸素を運ぶ血液が流れ出てしまって足りないのだ。もう目が霞んで視野がだんだん暗くなってくる、「何で? 死にたくない! 助けてくれ!」虚空に手を伸ばす、必死に何かを掴もうとする、恐怖と生への最後の執着か―、 そのまま崩れ落ちる、地面を掻き毟って息絶える。その屍の上を巷の塵芥が風に舞い散りながら吹き飛ばされていく。この人間の最後にどんな残像が残ったのだろう―。
 なにか虚しさを表現してみたくて、こんな死に方のお芝居を考えてみます。普段目に見えない、人間の内面にある心理の屈折というか、またその状態を具象化し絵にして見せるのです。悪役(敵役)は俳優が演じるものなのです。無限の創造的バリエーションを膨らませながら。
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by masashi-ishibashi | 2008-04-15 19:07



俳優石橋雅史ぶらぶら日記
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