石橋雅史の万歩計

2008年 04月 25日 ( 1 )

負けるわけにゃいきまっせんばい! 11

 戦局の方は日に日に悪化し、翌、昭和二十年(1945)私が国民学校六年生の後半から中学校に入学する時期には末期的な様相を呈して、三月の八日だったか十日だったかに第一回目の大空襲。この爆撃はたしか東京にB29爆撃機が飛来して、大々的な空爆を行った日とほぼ同じではなかったでしょうか。台湾のほうはB26爆撃機だということでしたが、記憶に少しばかりあいまいなところがあります。ちょうどお昼時で、これまで空襲警報が発令されても敵機は素通りして被害が無く、人々が油断していたこともあって、多くの家屋の倒壊焼失に伴う夥しい死傷者を出し、その日からは連日の猛空爆。それは現場を目の当たりにした者にしか分からない、筆舌に尽くせない凄惨な地獄絵でして、風向きによって街全体に何日も何日も死臭が漂い続けました。
 父は即座に陣地構築のため島の南端に飛び、母や弟たちも三月のうちには台中の山間にある、埔里という町に疎開してしまったものですから、勢いあれよあれよといううちに、私だけが台南第一中学校入学早々、学生寮に取り残されて、連日、爆弾、焼夷弾、機銃掃射の中をひたすら逃げ回っていました。ただただ怯え逃げ惑うだけの屈辱の日々ですよ。
 あの戦略は徹底していましたね。空襲の最中に防空壕の隙間から恐る恐る上空を見上げますと、対空砲火の届かない遥か上空を、太陽に反射してキラキラと光りながら、来襲したB26爆撃機の大編隊がゴマ粒を一面にばら撒いたように爆弾投下していきます。何秒かすると大爆発の連続音とともに震度5かと紛うばかりの大パニック。破壊が終わると次は焼夷弾を投下して焼き尽くす。あの時、防空壕の天蓋に土を盛っていた人たちはほとんどが生き埋めとなり、家屋や店舗の床下などに防空壕を作っていた人たちは、倒壊した建物で生き埋めとなったうえ、次におきた火災でみんな蒸し焼きになってしまったんです。それはむごいものです。次には艦載機のグラマンやロッキードP38などが飛来して、逃げ惑う人たちに機銃掃射を浴びせるといった、波状攻撃による完璧な壊滅作戦です。文章を読んだり耳で聞いたりしただけではなかなか実感できないでしょう。あの頃五百キロ爆弾とか、一トン爆弾などといわれるものを投下していたようですが、一トン爆弾なんていうのは着地爆発によって、それはそれはとてつもなく大きなクレーター様の地形を作り出し、それに、その時の爆風と飛散する爆弾の破片や土砂の物凄さ。加えて爆発が連続して起きますと、先ほども申しましたように震度5の地震どころじゃありません。それから、あれだけいっせいに火災が起きますと、そこら一帯に熱風が巨大な渦を巻いて消火どころの騒ぎではないのです。炎に包まれなくても熱風に巻き込まれただけで焼け死にます。戦時中の防火訓練でやっていたバケツリレーだの、モップのようなものの先に水をつけてパタパタなんてことは何の役にも立ちません。
 爆撃の振動で崩れた庭先の防空壕で、下半身が埋もれ脱出できずに苦しんでいる知人を、皆で引っ張り出そうと必死になっても、天蓋に使用した太い桟や板、それに盛り上げていた土が壕の中に崩れ落ち、曲がった体を圧迫してなんとしても抜けてこない。あたふたしているうちに火災を起こした家屋がなだれるように焼け落ちてくる、助けを求める知人を見捨てて一散に飛び散る。慙愧に絶えず、その時の光景がいつまでも夢に出てきてうなされる。
 この凄まじい空爆で、何人かの友人知人が犠牲なり彼岸の人となりましたが、今振り返ってみてもよくぞ生き残れたものだとつくづく思います。
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by masashi-ishibashi | 2008-04-25 18:05



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