石橋雅史の万歩計

2008年 04月 17日 ( 1 )

負けるわけにゃいきまっせんばい! 7

    生い立ち


 <俳優を形成するもの>

 いきなり悪役の創造から走り出しましたが、普通、文筆業を生業とする作家の方なども、作品を創りだす段階において、まず自分の生き様のどの部分をどの角度からナイフで抉って、その切り口を見せるかというところから創作という作業が始まるわけですが、小説である以上、当然より効果的な表現手段としてのフィクションが構成されていくことになります。
 私は俳優ですが、俳優にも大変似ているところがあって、舞台に立ってもスクリーンに映っても、演じる人物は、その俳優の人生のストリップショーだといわれるくらいに、生き様が現れてきます。もちろん、お芝居もフィクションですが、自分が今まで見たもの(現実、芝居、映画、絵画、etc)、聞いたもの(人の話、音楽、etc)、読んだもの(小説、詩、ノンフィクション作品、etc)、いろいろと体験したことなどのように、自分の血肉となったものの中からしか、フィクションを構成するイマージネイションは生まれてこないのです。だからある意味で、演じるということは、自分の恥部まですべて公衆の前に晒していることになり、大変勇気がいることなのであります。しかしこの職業で生きている限り、逃れられないことですから開き直るしかありません。
 そこで自分が生きてきた足跡を、七十余年間じゅっくりととはいきませんが、タイムスリップして、触りだけでも駆け足で垣間見てみようかなあと―。 この年になって改めて振り返ってみるのもいいじゃありませんか。


 <幼年期>

 私の父母は九州福岡の産ですが、私が生まれたのは、台湾東海岸中央部にある花蓮という港町の、台湾花蓮港庁花蓮港新城通り九番戸というところです。現在は観光ルートにもなり、商業、交通の一中心で、東海岸唯一の良港だそうですが。職業軍人だった父と、平凡で小さな商家から嫁いできた母との間に、長男として昭和八年(1933)一月四日に出生。
 ここ花蓮より南方に位置するところに台東平野があります。日本領有時代、この地でサトウキビ栽培が開発されてから、花蓮に製糖工場が設けられたという位置関係のところです。サトウキビとは関係ありませんが、この台東にも生後の一時期、父の仕事の関係で移り住んでいたようですが、あまりにも小さい時だし、父母から興味のある特記すべきエピソードなども聞いていなかったものですから、セピア色になった古い写真に、兵隊さんに抱かれたものや、住んでいた官舎、その周りに立てられていた、背が高くて大きくはためく五月幟や、鯉幟を見るだけで、まったく記憶に残っていないのが残念です。
 ともかく、また花蓮に舞い戻り官舎住まい。官舎といっても大した代物ではありません。緯度からしても北回帰線に近い、典型的な亜熱帯地方の気候で、年間平均気温が二十度を下らないうえ、台湾は山が東海岸(太平洋側)に迫ってきてますから、夜など窓ガラスにヤモリがぺたぺた。ときにはムカデまで登場します。海岸が近いせいか? 朝、靴を履こうとして足をつっこんだら、奥に蟹が入っていてギャーッ。嘘みたいな本当の話。
 ここで幼稚園に入園。泣き虫できかん坊、痩せて真っ黒、とまあ墨汁の中に飛び込んだ蚊とんぼのようなもので、目ばかりギョロギョロして始末が悪い。たまに故郷の九州へ帰ると、親戚の連中が「まあ、マーちゃんな、ほんなこてゴボウんごたる(まあ、マーちゃんは本当に牛蒡みたい)」と表現したそうですから大体想像がつきます。それでも孫は可愛かったらしくて、祖父などはよく肩車をしてあちこち連れ歩きご満悦だったようです。
 ある日、幼稚園から我が家に連絡がありまして、「お宅の息子さん、今日は見えてませんけど、体の具合でも悪いんでしょうか?」と言ってきたんだそうです。母親は大慌て「いいえ、いつものようにちゃんと送り出しましたけど?」って。さあみんなも大騒ぎ。当時は人攫いにさらわれてサーカスに売られるよなんて、バカな脅し文句もあった時代ですから。いったい何処へ行っちゃったんだろうと、手分けして探し回ったところ、何のことは無い、自宅と幼稚園の途中にあった小川で、泥んこになって魚とりに孤軍奮闘していたといいます。幼時から名うての道草名人だったようで困り果てたものです。
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by masashi-ishibashi | 2008-04-17 18:48



俳優石橋雅史ぶらぶら日記
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