石橋雅史の万歩計

負けるわけにゃいきまっせんばい! 111

 <鈍な話>

 賢い話をしましたから、ここで要領の悪い鈍な話もひとつしましょう。この男、名前は言いませんが個人的には大変好きなんです。しかし真面目なだけが取り柄でどうにも融通が利かないんですね。
 ある芝居で「殿のお成りにござります」と言う彼のセリフがありまして、それと同時に、揚幕(花道の出入りの時に、開け閉めする幕)がシャンと開いて、主役が登場することになっていたのですが。彼はいつも楽屋入りすると、すぐにメーキャップを済ませ衣裳を着けて、毎日、奈落の隅でそのセリフの稽古を何度も何度も繰り返しているんです。演出家のダメだしを忠実に守るために。そして本番が終わると必ず「どうでした?」って聞きにくるんです。
 ある日、私がその俳優に「そんなに同じところばかり繰り返していたら、テープレコーダーの声を再生しているみたいで、人間の生きた声じゃなくなっちゃうぞ。芝居は全体の大きな流れの中で掴むものだよ」って言いましたら、素直な彼のことですから、その日はちょっとだけ頭の中でおさらいをして、揚幕のところに行き挑戦してみたんです。そしたら自信がないものですから、あまりの緊張に平常心でいられなくなったんですね。顔は引きつってくるし身体は落ち着かなくなるしで、これはまずいなと思っている間もあらばこそ、キッカケがきたとたん、緊張はその極みに達して「トノロロロ」って舌が回らなくてロレっちゃった。トロロ芋じゃないって。まだ幕の内側にいて声だけなのにです―― もう。「しっかりしろよッ!」って小声で励ましたら、精神状態がすっかり動転しているものですから、今度は「済みませんッ」って答えちゃったんです。その方がセリフよりずっとはっきりして確かでしたよ。そりゃそうです、反射的にまた自然に、自分の中から出てきたわけですから。そのまま芝居を続ければいいのにと思い「バカッ」って言ったら、「殿のお成りにございます」をはじめッからやり直しちゃった。稽古場じゃないんですからお願いしますよ――。大物になるには何かもうちょっとですね――。揚幕の近くにいたお客さんは、喜んでいたと言うか笑っていましたけど。いやあ、これは私の責任でしてこたえました。
 もっとも、テレビがまだ全部生放送だった時代(昭和三十年代の初期ー1955)に、本番中にトチリ(失敗すること)、思わずカメラに向かって「ゴメンナサイ」って言ってしまった俳優がいましたけど。生放送の場合、本番中にスタジオでカメラに映ったものはもう編集不可能。リアルタイムでそのまま全て家庭のブラウン管に流れるんですから。最近のバラエティー番組ならともかくドラマはご愛嬌じゃ済まされません。人がいいって言えば人がいいんですかね――。
 自信がついてくれば平常心でいられますから、俳優ものびのびと大きく見えて、その人が本来持っている味も出てこようというものです。
 これは俳優に限らず、何の世界でも同じですよね。そこまで来るにはそりゃあ苦しみと試練の連続です。このとき苦しさに耐え切れず、低きに流れて易きにつくか、じっと我慢に我慢を重ねて辛抱し、でっかい花火をぶち上げるかでしょう。当たり前なことではありますがこれがまた一番大変――。人間、じっと辛抱してそれを乗り切った時に何かが生まれる。つまりその人にしかない人間としてのいろいろな膨らみというか味ですね。
 人間の情感というものは、一プラス一必ずしも二になるとは限りません。三にでも四にでも五にでもなります。料理番組で便宜上作ってある、サラダ油大さじ一杯、酒小さじ二杯、醤油大さじ三杯、酢、砂糖少々などという、マニュアルと言うかレシピで出来るものじゃないんです。あれじゃ誰が作ってもみんな同じ味になっちゃうじゃありませんか。料理人の腕の見せ所はありませんよね。人間は、その、計算では割り切れないところに、その人の味わい、いわゆる魅力が出てくるということです。
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by masashi-ishibashi | 2008-10-08 13:37
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俳優石橋雅史ぶらぶら日記
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