石橋雅史の万歩計

負けるわけにゃいきまっせんばい! 94

 <極真会・大山倍達総裁との親交>

 今はもう亡くなられた、漫画家の梶原一騎さんが書いた「空手バカ一代」という劇画がありまして、これが若者たちの間でベストセラーになりました。
 空手をやっているか、または興味をお持ちの方はご存知のことと思いますが、この主人公は、牛殺しの大山倍達とかゴッドハンドなどと言われた方で、今は故人となられましたが実名で、本当によく鍛錬されたすごい方でした。
 昭和三十一年(1956)だったかなあ―― 、大山倍達師範からご相談を受けたのは――。
 拓植大学の出身で、もともとは松濤館流をやっておられたのですが、山口剛玄先生(全日本空手道剛柔会の会祖)の知遇を得て剛柔流を学び、剛柔会本部が浅草千束にあった頃には理事を務められたこともあって、以前から面識はありましたけど、この頃はもう剛柔会を脱退されていたのです。
 で、その相談というのが、実は目白の自宅庭でやっていた野天道場から、立教大学裏にあったバレースタジオに稽古の場を移し、「大山道場」の看板を揚げたのだが、自分が忙しいので、そこの指導を手伝ってくれないかとのことでした。
 道場といっても、オンボロ木造アパートの一階にあった狭い板張りのスペースで、窓ガラスなどは破れたままベニヤ板みたいなものを叩きつけ、少し傾きかけたような、今にして思えば大変粗末なところでしたが、〈大山道場〉と墨で書かれた木の看板がかかっていました。ここが現在ある、極真会草創期の道場だったのです。
 空手界がまだ大変保守的な時代で、大山師範が剛柔会を脱退して作った道場と言うことですから、いろいろ問題はありましたけど、師範の人柄と言いますか、魅力に惹かれて、ともかく師範代理をお引き受けすることにしたのですが、その頃この池袋界隈は、現在では想像できないほど荒れていまして、いろいろな人たちが稽古に来ていました。飲み屋の亭主、学生、ヤクザ、職人、サラリーマン、力道山のところの若手プロレスラー金子とか、初代女子プロレスチャンピオン豊田明美さんなど。ときには妙な武術を名乗る、道場破りのような、ちょっとクレージーな者までやって来たりして、生半可な根性ではやっていけません。文字通り血みどろの練習ですよ。
 大山師範はある格闘技マガジンの取材に、当時を振り返って、あの頃は自分の修行とか海外遠征などで弟子たちの指導どころではなく、〈石橋は、アメリカ遠征中の私に代わって道場を預かり、弟子たちの指導に当たってくれた貴重な人だった〉と言っておられますが、とにかくその頃の道場生たちは、基本技の正拳突き百本、前蹴り百本などといった練習メニューが中心でした。
 そこへ大学空手部の系統的な練習法を持ち込んだのです。柔軟運動、鍛錬、拳の正しい握り方、掌の作りかた、立ち方、受け方、突き方、打ち方、当て方、蹴り方、重心の移動、転身などを厳しく指導し、基本移動、複合基本移動、型、型の分解組手、約束組手、そして自由組手(約束なしの攻防)と。剛柔流独特の稽古法とか、接近戦の自由組手に、皆さんは大変興味を持ったようです。
 日芸の空手部まで来て稽古をした人が何人もいたり、また、大山師範の佐渡島での空手デモンストレーション、そして田園コロシアムでの牛との対決や、昭和三十二年(1957)に海外向けとして出版した「What is KARATE」の製作時には、型や組手の撮影にと、多数の日芸空手部員が、私と大山師範とのかかわりの中で協力しているんですね。
 大山師範は酒もタバコもやらない方でしたが、相変わらず貧乏な私たちを、稽古の帰りに、池袋のマーケット街に連れて行き、武道空手の話をしながら焼肉だとかどぶろくをご馳走してくださったものです。
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by masashi-ishibashi | 2008-09-14 14:34
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俳優石橋雅史ぶらぶら日記
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