石橋雅史の万歩計

負けるわけにゃいきまっせんばい! 29

 私より少し古い劇団の先輩に聞きますと、そのまた先輩の今は故人となられた丹波哲郎さんなどは、その頃外国の古着などを売っていた、「オリエンタル」という店(赤坂にありました)で買った、ダブルのスーツにソフト帽をかぶってきめこみ、劇団にやって来ては例の口舌をぶちかましていたと言います。
 丹波さんと言えば、霊界の話でも有名ですが、ある地方公演に行ったとき。ちょっと地名は忘れましたが、芝居までの空き時間に仲間数人と、その土l地にあるお城を見物にいったんだそうです。お城を見上げていた丹波さん、なぜか急に便意をもよおしてきた(多分、朝、宿のトイレで用を足してこなかったんでしょう)、すると彼は、突然天守閣まで駆け上り、新聞紙を敷くなり脱糞し、それを丸めて下界に放り投げ、おお! 爽快なり!と言ったとか。本当ですかね……。
 さて開演時間となり、丹波さんと加藤忠さん(やはり文化座の先輩です)、上手と下手から登場。舞台で顔を見合わせたとたん、二人ともさっさと両袖に引っ込んじゃった。再び出て行ったがまた相手を見たとたんに舞い戻ってきた。これじゃ芝居になりませんよね。ネタを明かしますと、お互いに出の前のメーキャップを、相手に見られないようにコソコソとやり、鼻の下につける口髭の代わりにブラックテープを貼って出て行ったわけですよ。思いもかけないことをやって、相手役をぎょっとさせてやろうと企んだ、悪ガキみたいな茶目っ気のあるいたずら心だったのですが、図らずも敵が同じことをやってきたものですから、その心底が可笑しく、思わず吹き出しそうになるのを我慢するのが精一杯で、セリフが出てこなかったんだとのこと。腹の皮がよじれて死にそうだったよと、当人たちは苦しがっていたそうですが、何を言ってますか、二人とも自分が仕掛けて自分で吹いてりゃ世話ないですよ。第一お客さんに失礼です。そうでしょう。
 やっぱりその頃から変わってたんですね。生前も仕事場でたまに会ってお話をしていると、相も変わらず煙にまかれていましたが、私が入団したころは、すでに映画の方へ移っておられました。
 創立当時は、山村聡さん、山形三郎さん、山形勲さん、芦田伸介さんなど、皆さんもよくご存知のいい俳優さんがおられたのですが、これらの人は今や皆故人となられ、そのお人柄や、いろいろなエピソードをお聞きしていなかったのが残念です。
 この文化座に約八年間在籍することになるのですが、プロという水の中で呼吸しながら、本当に、純粋に芝居と取り組んで燃えてた時代じゃないでしょうか。稽古が終わったと言っちゃ、焼酎飲んで喧々諤々。芝居が終わったと言っちゃ、泡盛飲んでニンニク齧って喧々諤々。臭い息を撒き散らし最後は酔っ払って大喧嘩。若さですよ。海綿体のように何でも吸収し目がキラキラ輝いていたと言うか。がから戯曲を読み理解する力とか登場人物の捉えかたは、この時期に培われたもので、人物を表現する演技法は、この五十年余りの間に数多く出演した舞台、映画、テレビでご一緒した演出家、監督、畑や育ちの違う多くの俳優さん方との交流や、読書、映画鑑賞や演劇鑑賞などの中から、自分なりの表現方法を創りあげたものです。
 昭和三十四年(1959)。「炎の人」の再演では、ゴッホの従兄で、画家のモーブという大役を貰い、二十六歳だった私にとってこの年功を経た大家という役どころは、大変荷が勝ちすぎてうまく演じることが出来ず、今だったらなあと慙愧に耐えません。
 この八年間は俳優として本当の出発点で、当時の仲間が集まると、その頃のことが脳裏を去来して話題に事欠きません。皆若かったんです。
 研究所でのレッスン、稽古、劇団本公演での稽古、公演、旅公演、海での夏季合宿(これは皆でいいコミュニケーションを持つための、一週間位の遊びですけど)、これらにまつわるエピソードがあまりにも多すぎて。
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by masashi-ishibashi | 2008-05-21 14:15
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俳優石橋雅史ぶらぶら日記
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