石橋雅史の万歩計

負けるわけにゃいきまっせんばい! 22

 昭和三十二年(1957)十一月、先生は大田区徳持町の「どんこ庵」を引き払い、新宿から出ている京王線の飛田給駅から、甲州街道の方へ向かって十分ほど歩いた、東京都調布市上石原に転居されました。現在は拓けてしまって住宅や商店が立ち並び、旧甲州街道と国道20号腺(新甲州街道)の間に挟まれていますが、当時この辺りは畑と孟宗竹の竹やぶでした。ここに転居されてから、一度、相談かたがた遊びに伺った時、「君は、どう考えても映画向きじゃないかと思うんだけど、ま、とりあえずはしばらく、プロの舞台を踏んで勉強するのも大切なことだから、映画の方はそのうちゆっくり考えようよ」なんておっしゃっていましたが、その映画の話が具体化しないうちに、亡くなってしまいました。
 昭和三十二年も暮れの十二月十九日。火野先生と同じく、大変ビールが好きなお方でしたが、忘年会の帰宅途中、新宿区下落合の路上でタクシーに跳ねられて。転居してわずか一ヶ月足らず、五十三歳でした。このお宅に銀杏の木が二本あって、「今度は、銀杏庵にしようかなあ」なんておっしゃっていたのが想いだされます。私が二十四歳のときです。
 いろいろ面倒を見ていただいた方の死という悲しみと、支えを失った気落ちとで大分落ち込んでしまい、本当はお慰めしなければいけない奥さんに、「大丈夫よ、これからは火野先生に相談して、力になっていただきましょうよね」と、逆に励まされてしまったりもしたものですが、その火野先生も、長谷先生を追いかけるようにして、昭和三十五年(1960)、ちょうど六十年安保の年に自殺されて――。 奇しくも長谷先生と同い年の五十三歳でした。
 父が昭和二十六年(1951)、五十一歳で亡くなり、その後支えになっていただいてた方々が、次々に彼岸の人となっていく。究極、人間本当はいつも独りぼっちなんです。一人で生まれて一人で死んでいく。いろんな方々にお世話になり、力になっていただいても、人生というレールの上を走るのは自分自身です。何人といえども代わってもらうことは出来ません。まして私は、絶対に代替の利かない、私という個性でしか成り立たない仕事を選んだのですから。
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by masashi-ishibashi | 2008-05-13 19:21
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俳優石橋雅史ぶらぶら日記
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