石橋雅史の万歩計

負けるわけにゃいきまっせんばい! 21

 長谷 健先生


 郷里を出る時に、東京へ行ったらお会いになってごらんなさいといって紹介していただいたのが、昭和十四年(1939)上半期に「あさくさの子供」で第九回芥川賞を受賞、「あさくさの子供」の他、「火の国の子供」(1940)、「開拓村の子供」(1941)など多くの児童文学作品を書かれ、最後のほうでは同郷の歌人、北原白秋の伝記三部作「からたちの花」(1954~1955)、「邪宗門」(1956)、「帰去来」<未完>(1958)に取り組んでおられましたが、残念ながら「帰去来」執筆中に、交通事故で亡くなられた、郷土出身の作家、長谷 健先生だったのです。
 人の輪というのはどんどん広がっていくもので、この紹介状を書いて下さったのは、高校時代、文化祭で「海へ騎り行く人々」を演った時に、老母役を演じた人のお父さんで、内山田参郎さんとおっしゃる、やはり柳川の方ですが、今ではすっかり内山田家と音信不通になってしまって、まったく消息も分からずに失礼を重ねており、申し訳なく思っております。
 昭和二十七年(1952)、日本大学の芸術学部演劇学科に入学して、とりあえずは身の振り方も決まり将来の方針も少し固まった頃、五反田から池上線に乗って、大田区徳持町にあった、ご自身「どんこ庵」と称しておられた先生のお宅にお伺いしたんです。(広辞苑によると、どんこは鈍甲と書きはぜ科の淡水魚、本州中部以南の川や沼に普通。からだは太くて短く体長約十五センチメートル。体は黒褐色。美味。和名ドンコとある。餌にすぐ食いつく魚で、私なども子供の頃よく釣りに行ったものです。また水郷柳川は掘割を巡るドンコ舟でも有名)。かつては、やはり同じく芥川賞作家で、福岡県北九州市出身の火野葦平先生(1937「糞尿譚」で芥川賞を受賞)と兄弟のようにして、一軒の家の上下に住んでおられた時期もあったようですが、そのころは、もう奥さんとご子息の三人暮らしでして、書斎に通され改めて自己紹介をし、紹介状をお渡しすると「フン、フン」と頷きながら読んでおられ、読み終わると、しばらく難しい顔でじっと私を見ておられましたが、急に笑顔になって「そう、芝居をやってみたいのかね」と気さくに話しかけてくださったので、今まで緊張しきって身を硬くしていたのが、いっぺんにほっとし、思わず「はいッ」って乗り出したものです。何しろ初めて小説家なるお方にお会いするわけだし、私はまだ十代で、年の差はちょうど親と子ですもんね。そりゃ緊張もしますよ。そのあと「しかし大変だぞ、ま、今は学校で勉強しながら好きにやっていなさい。将来のことは、追々いいように考えてあげるから、これからは時々遊びにおいで」なんて、美味しいことを言われたものですから、すっかり図に乗り、胸をときめかせ、電車賃を貯めては、近況報告を兼ねて遊びに行き、演劇界の話とか、映画界の話、延いてはその人間関係、最後にはまったくとりとめもない雑談を聞いていました。
 或るとき、雑談の最中に、私の体をしみじみと眺めて「石橋くん、ちゃんと食べてるのかね?」と心配顔でお聞きになるので、本当はろくなものも食べてなかったんですけど、「はあ、まあ――」とごまかしてましたら、「君、金がないときは、鰯と豆腐を食ってれば絶対に大丈夫だよ」と、あんまりまじめな顔でおっしゃるものですから、思わず吹き出しそうになったことがあります。
 何故って言いますと、先生を初めて見たときから、ずいぶん色が白くて、ぷくぷくしてる方だなあと思ってたものですから、先生も貧乏なときには、豆腐ばっかり食べてたのかなあと思ったとたんに、それじゃあ共食いだあなんて、つい不謹慎な連想をしてしまったんです。しかし鰯なんていう魚は、今でこそ高級魚みたいに値が高いですけど、当時は本当にべらぼう安かったですからね。
 この先生に、新劇の劇団文化座を紹介していただいて、プロとしての第一歩を踏み出したわけです。
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by masashi-ishibashi | 2008-05-11 14:39
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俳優石橋雅史ぶらぶら日記
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