石橋雅史の万歩計

負けるわけにゃいきまっせんばい! 19

  芝居との出会い


 <毬栗頭の頃>

 さて、ここで芝居との出会いの顛末ですが。本当に何事も、ひょんなことから思わぬものと結びつく事があるものです。
 ここまでの話の流れからすると、時代はちょっと遡り昭和二十一年(1946)。軍国主義体制の中で育ち、少年航空兵などに憧れていた少年が、敗戦の中、九州に引き揚げてきてからは、最初っから勉強をやり直さなければ駄目だというんで、福岡県立柳川傳習館中学校の第一学年に再入学したんです。
 裸一貫の引揚者で貧乏なのと、九州弁という方言が喋れないので仲間はずれにされて、「台湾泥鰌、 台湾泥鰌」と随分からかわれよく喧嘩をしたものです。まあ、土地っ子とよそ者って感じでしたよ。もっとも今思い返してみると、昨今のように変に陰湿なものではなくて、わりにからっとしたものでしたけどね。ですから、先年、芝居の巡業で柳川に帰ったときも、四十年ぶりだというのに、お互いに年を取った学友たちが何日も前から皆で肝煎ってくれ、当日、芝居が終わって夜九時半からという遅い時間にもかかわらず、恩師をはじめ、その頃の悪ガキたちが男女合わせて五十人余り集まって、大歓迎会を催してくれましたが、友人とは本当にありがたいものだなあとつくづく思って涙が出ました。
 まあ、これは余談ですが。前述のような再入学の状況でしたから、これは負けちゃいられないぞと考え柔道部に入ったんです。単純なものです。戦時中大抵の家庭には柔道着か剣道着はありましたから、それを譲ってもらえばお金は一銭もかからない。私のような貧乏人には一石二鳥だったわけでですよ。これが本音。
 もともとこの傳習館という学校は、柳川城主立花宗茂を藩祖とする、立花十二万石の城下町として栄え、郷土の歌人北原白秋をして「色にして老木の柳うちしだる我が柳川の水の豊けき」と歌わせた、水郷柳川立花藩の子弟が通う藩校だったわけで、剛毅な気風が強く、文化部にくらべて体育部の方が数段幅を利かせていたのですが、昭和二十三年(1948)に、新しい教育制度(六・三制)が創設されたため、同じ柳川市にあった、柳川高等女学校と合併し、名称も福岡県立伝習館高等学校と変わって、生まれて初めての男女共学となったんです。
 さあもう大変、今まで学校の塀によじ登り登下校の彼女たちをひやかしたり、竹やぶ越しに見える柳川高女のプールに忍び寄って、「ヨウ! ヨウ!」なんてやってた毬栗頭の悪ガキどもが、これなんとも純というかうぶといいますか、いっぺんに面食らってしまって、凧が中空で風にあおられ舞い狂ってるような、蜂の巣を突っついたような。何せこの時代は女の子との付き合い方なんて、まるっきり知らない奴ばっかりなんですから。急に髪を伸ばし安手のポマードをこってりつけて、変な香りをプンプンさせセンスのないお洒落をしてみたり、精一杯無理してへんてこりんな会話をしてみたり、焦れば焦るほどトンチンカンなことばっかり。この年頃は女性の方が姉さんぶって、少しばかり成熟してる面もありますから、呆れ返って眺めていたことでしょう。
[PR]
by masashi-ishibashi | 2008-05-04 14:51
<< 負けるわけにゃいきまっせんばい... 負けるわけにゃいきまっせんばい... >>



俳優石橋雅史ぶらぶら日記
S M T W T F S
1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31
カテゴリ
以前の記事
お気に入りブログ
メモ帳
最新のトラックバック
ライフログ
検索
その他のジャンル
ファン
記事ランキング
ブログジャンル
画像一覧