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石橋雅史の万歩計

負けるわけにゃいきまっせんばい! 12

 輸送幹線がずたずたに寸断され、寮に取り残された私たちのところには食料が何もなくなってしまい、食べられるものは何でも口に入れました。蛙、ネズミ、カタツムリ、(あちらには大きなエスカルゴみたいな奴がいて、日が落ちて夜になると沢山這い出してくるんです)、蛇。学寮の炊事場になぜか塩が沢山残っていて、蛙やネズミそれに蛇などは皮を剥き内臓を取り去って、塩をぬり火にあぶって食べる。ネズミの肉は硬いです。カタツムリは殻をつぶし、肉のところだけ塩をまぶしてぬめりを取り塩茹でにして食べる。
 学校の授業はといえば普通の学科はほとんどなく、足にはゲートルを巻き戦闘帽をかぶっての軍事教練。私たち一年坊主は大したものじゃありませんでしたが、なぜか村田銃(明治十三年<1880>、陸軍少将村田経芳の発明した単発小銃、同十八年<1885>改造、同二十二年<1889>に村田連発銃を発明)の手入れの仕方(当時、日本の歩兵銃は、明治三十八年<1915>に制定された、三八式歩兵銃だったのですが)などです。ちょっとしたミスでもあろうものなら大変。両足を踏ん張って歯をかみ締めろッと、強烈な往復びんたの鉄拳制裁。
 昭和二十年(1945)四月から六月にかけての凄惨を極めた沖縄戦と、八月六日の広島、八月九日の長崎に投下された世界最初の原爆は、広島約二十万人。長崎約十五万人の死傷者を出し、その原爆による想像を絶する悲惨さは敗戦を決定的なものとし、こんな状況の中で終戦を迎えたのですが、どんな戦争であれ、お互いに大義名分を立てて正当化してみても、尊い人命が失われ、取り返しのつかない環境破壊を起こすことに変わりはありません。こんなことではいずれ人類自身の手で、この地球は破滅してしまうことになるでしょう。この異常な体験は、私という人間を形成する物差しに、大変大きな影響を与えました。
 この終戦を境にして私の生活は一転して変わります。
 もちろん学校は休校。終戦当初しばらくは、長く植民地統治下にあった反動でか、台湾人による日本人に対する集団暴行事件があったりして、不穏な時期が続いたんです。時間がたつにつれて、彼らはまた理解を示すようになりましたが―。 職を失った父は、これまで面倒をみていた台湾人の紹介で荷車を買い込み、自分の愛馬に引かせて、青果卸売市場に出向き青果運搬のにわか仕事。ここでも随分嫌がらせを受けましたが、知り合いの台湾人が体を張って父を庇い彼らを説得していました。そばで見ていると日本人の父を間にはさみ、台湾人同士の善意と憎しみを剥き出しにし声を荒げての大喧嘩です。当人たちも理性では抑えきれない、また何がなんだか整理のつかないまま、いっぺんに噴出してくる感情を、為政者側にいた人間を前にして吐き出していたのでしょう。
 家族で道路にゴザをひろげて、食器や衣類その他、あらゆる家財道具を並べ金銭に換えてのその日暮らし、そんな中で、半年ほどたった頃やっと引き揚げ命令が出て、高雄港に集結することになったのですが、帰国に際して、進駐してきた中華民国政府が許可したわずかな品も、港の検閲所で、めぼしいものはみんな中国兵に取り上げられ、残ったものはガラクタばかり。敗戦国の民はみじめなものです。
by masashi-ishibashi | 2008-04-26 18:15
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俳優石橋雅史ぶらぶら日記

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